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脳損傷患者の知覚世界〜環世界

環世界とは、ユクスキュルの提唱した生物学の概念で、環境世界とも言います。

ユクスキュルによれば、すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きていて、それを主体として行動しているそうです。普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されていて、動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされると説明されています。


例えば、人は直接動物の発する熱を見ることはできません。しかし、ガラガラヘビは視野に入る鼠の発する熱を「見て」捕食することが出来ます。逆にガラガラヘビの光受容器による視力は悪く、特に静止している物は見ることができないとされています。人間には想像しにくい視覚環境認知ですね。


マダニには視覚・聴覚が存在しないけれど嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれているそうです。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構えています。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知され、そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取って、温度の方向に身を投じます。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつくのです。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなくて、温度と匂いと触った感じでできているわけです。


他の様々な動物もそうなのですが、それぞれの感覚受容器の特性による環世界を持っています。

感覚は、物理学的な原理を生物学的な仕組みにうまく組み込んで、刺激を「情報」に変換しています。ランダムな状況から情報の関連性を引き出し、雑多な寄せ集めの中から意味を紡ぎ出しているのです。



人の感覚というのは、アリストテレスが視覚/聴覚/触覚/味覚/嗅覚の5つに分類したのが有名ですね。現在でもよく使われている分類です。現在はそれだけではなくて、前庭感覚や固有受容感覚、重力覚なども言われていてて、五感だけではないのですけれど。

さて、これらの感覚を動員したとして、これらの情報だけで環境の全てを知覚できるものではありません。先に書きましたように、人はガラガラヘビのように熱を見ることもできませんし、マダニや犬のような嗅覚も持っていません。

人間が持っている感覚受容器にそった形で人間の脳の中に構築した環世界を知覚しているのです。


勿論、この人の環世界というのは一定の共通する部分はあるものの、個人的なものであって、人それぞれに環世界を持っていると言えるのではないかと私は思います。

ほら、視覚と言っても、赤色が見えにくい人もおられたりしますし、嗅覚の状態も人それぞれですよね。個人的な感覚受容器の特徴によってそれぞれの環世界は異なると考える方が自然ですよね。

そして、その環世界は個々の経験の影響も受けます。脳の可塑性〜学習による影響でここの環世界は異なっていると言えるのですね。

例えば、大谷翔平はバッターボックスで150キロぐらいのボールをきちんと見て反応することが出来ますよね。

私などたぶん、きちんと視覚で捉えることは出来ないと思うのです。これは身体的特徴と学習による違いを感じますよね。


さて、脳損傷を起こすと、脳の損傷が起きるので、情報の関連性から意味を紡ぎ出すことが困難になります。また、同時に麻痺側身体の自律神経系は乱れ、身体に配置されている感覚受容器の働き自体も通常の状態とは異なる状態になります。

感覚情報が変化し、情報に意味を紡ぎ出す脳の機能が壊れているわけですから、脳損傷患者さんの持つ環世界は医師や理学療法士、作業療法士と言ったスタッフであっても簡単に理解できるものではありません。「患者さんの環世界を理解するのは非常に難しい」という事を知っているのがそうした医療従事者なのだろうと思います。


脳損傷患者さんの場合、いったん学習した情報の関連性から意味を紡ぎ出す回路が壊れているわけですので、かなり強い混乱状態にあります。麻痺した側に体重を上手くかけることが出来なかったり、左側の世界が解らなくなったりするケースもあります。中には、自分の左半身を無視してしまうような場合もあったりするのですね。

それは言い換えれば、環境の意味を失っている状態と言えるでしょう。

こうした場合のリハビリテーションはどのように考えるのかというと、多重感覚入力が鍵となるのです。


多重感覚入力、何だか解るような解らないような表現ですね。(^_^;


ちょっと古い資料ですけれど、以下の図があります。

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身体シェマというのは、環境下における自己身体の状況情報と云うことが出来るかと思いますので、人の環世界の知覚には多重感覚入力が大切だということも示されていると思います。

ただし、感覚入力は運動の結果生じるという面もあるので、感覚入力が運動を造るといった因果関係で捉えないよう注意が必用かと思います。


さて、脳でどの様に情報処理されているかというと、各感覚野に届けられた情報は少しずつ加工されながら頭頂間溝野や下頭頂小葉に届けられます。

頭頂間溝野には様々な感覚情報が統合される回路があります。

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先に、感覚が運動を造るといった単純な因果関係では無いと書きましたが、この頭頂間溝野も運動前皮質からの情報を受け取っていますし、下頭頂小葉も上縦束を介して運動前皮質と相互に情報をやり取りしていますので、単純な因果関係は構造的にも成立しません。

環世界をそれなりに正確に知覚するためには自らがどの様な動きを起こそうとしているのかといった情報も感覚情報とともに必用ですよね。


さて、人の持つ様々な感覚が、同時に、或いは意味のある時間差を持って情報処理されることが大切だというようなお話を書いてきたのですが、これが多重感覚入力が鍵となると書いた理由です。


実際にどの様にアプローチ場面で使っているのかというお話に移りますね。

解りやすい~と言うか説明しやすい例を挙げます。(*^_^*)


仰臥位では、頭部は天井を見ています。天井が動いていないことや前庭感覚入力が起きていないことで、身体が仰臥位で安定しているといった情報になります。

同時に、頭部、背部、手部、下肢などの床面との接触部位が床が平面であるという情報を形づくっているはずですよね。

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ここから仰臥位で右足を挙げて片膝を立てたような姿勢を取るとします。

右足を挙げた際に、股関節の屈筋や膝の伸筋が働いているわけですが、同時に、右の臀部には下肢の重さがかかって床面に対する圧が強まったりします。この時、予測的姿勢制御のメカニズムが働いているので、骨盤は酷く右に崩れることなく支持基底面がやや左の頭部の方向に移動していくかもしれません。そうした感覚の変化が起きます。

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右の膝を立てた姿勢で、右足で右のお尻を少し持ち上げてみます。

その際、仰臥位において、床が平面であるという情報は背部や手掌、左下肢後面や右足底の感覚が補償しているはずです。

お尻をそっと持ち上げると、右腰部の多裂筋は興奮性を増し、右の殿筋群と共に右膝の伸筋群とハムストリングスが同時に働き、足部も安定のための筋出力を出しているはずです。それらの筋出力は筋紡錘や腱紡錘などからフィードバックされます。その結果、僅かな時間経過をもって右臀部の圧が減少し、その後臀部の接触面が離れて触覚も減少することになります。この動きに伴うように腰部の前弯がやや減少して後弯方向に動き、胸椎部では回旋を伴った感覚が生じています。

これらの感覚が統合されることで、床面に対してこうした筋出力を起こすと感覚情報が変化していくことを学習していくわけですが、それが床面(支持基底面)であるとか、下肢や足部であるとかの意味を紡ぎ出すことになります。

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だから多重感覚入力は、単に刺激を与えるのではなく“環世界を再構築する手助け”になると言えるわけです。


一つの例を挙げましたが、このことがすべての人に適応できる話ではないです。

そもそも人の身体や脳には個性があり、それぞれの環世界を作ろうとしているわけですし、脳損傷の場合は脳の何処がどの様に壊れているのかと云った事でその人なりの環世界の紡ぎ出し方にはバリエーションがあると言えます。

ですので、人にどの様な感覚情報を受け止めてもらって、どの様な動きでその人に対応していくのかというのは、それぞれに異なるとも言えます。


ここが人に関わる科学の難しいところですね。


その人の環世界を知る、或いは脳損傷患者さんの環世界を知り、科学的な評価を試み、一定の定量化をおこないつつ、その人にとってより適応しやすい環世界を紡ぎ出すお手伝いをする。

難しそうでしょ。(^_^;


脳科学であるとか、生物学とかの研究者はきっと、頭を抱えたくなる問題がここにあったりするのだろうと思います。

PTやOTも同様ですけれどね。(*^_^*)


繰り返しになりますけれど。

脳損傷リハビリテーションにおける多重感覚入力は、失われた世界を単に「補う」ものではなく、患者さん自身が新しい環世界を「紡ぎ直す」プロセスを支えるものです。リハビリテーションの場とは、科学と個別性の間に橋をかける営みなのだと思います。


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