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感覚論理の情報処理

更新日:2 日前

Sensory Logic in Neural Information Processing: Toward a Framework of “Sensory Logic Studies”

English Summary

In this article, I use the provisional term “Sensory Logic” to describe a hypothetical form of information processing through which the nervous system detects and utilizes regularities in the relationship between the body and the environment.

I tentatively refer to the broader attempt to investigate these processes as “Sensory Logic Studies” (感覚論理学). This is not intended to describe an established academic discipline, but rather a conceptual framework for asking how neural circuits, bodily activity, sensory consequences, and environmental regularities may together generate meaningful and adaptive behavior.

Sensory information does not become meaningful simply because multiple sensory inputs reach the brain. Its meaning may emerge from lawful relationships among sensory input, bodily action, environmental change, prediction, and the sensory consequences of action. For example, a sound coming from the left predicts that its source should be located to the left, and turning toward it allows that prediction to be tested.

This idea has some conceptual continuity with the work of McCulloch and Pitts (1943), who demonstrated that simplified neural networks could implement logical operations through excitation, inhibition, thresholds, and network connectivity. However, biological behavior cannot be understood as a simple linear input–output process. Neural activity changes bodily action; bodily action changes the relationship with the environment; and those changes return to the nervous system as new sensory information.

I therefore propose that “Sensory Logic” may be understood as a context-dependent process distributed across the brain, body, and environment, in which sensory information is used to estimate states, predict consequences, detect errors, and select subsequent actions.

This perspective may also have implications for neurorehabilitation. After brain injury, the problem may not be limited to loss of individual sensory modalities or motor outputs. The relationships linking self-generated movement, multisensory feedback, environmental consequences, and subsequent action may themselves become difficult for the nervous system to interpret.

From this perspective, therapeutic handling should not be regarded simply as the passive delivery of “normal sensory input.” Rather, it may serve as a temporary means of adjusting bodily conditions so that the patient’s own motor output, multisensory consequences, and interaction with the environment can again form a coherent and usable relationship.

“Sensory Logic” and “Sensory Logic Studies” are currently conceptual proposals rather than established neuroscientific theories or academic disciplines. Their purpose is to provide a framework for considering how neural circuits, bodily activity, and environmental regularities interact—and how these relationships might be reconstructed after brain injury.



〜ここでいう「感覚論理」という言葉は、私が便宜的に使っている仮称です〜


以前から、少し考えていたことがあります。

リハビリテーションでは、「意味のある感覚を提供することが重要だ」とよく言われますよね。

では、意味のある感覚とは、いったい何なのでしょうか。

例えば、赤ちゃんの左側からお母さんの声が聞こえたとします。

赤ちゃんが左を向くと、そこにはお母さんがいる。お母さんの顔を見て、安心したり、うれしくなったりする。

このとき赤ちゃんの中では、声の質、音が聞こえた方向、そちらを向いたときの視覚情報、さらに安心や喜びといった情動が、一つの出来事として結びついていきます。

そして、お母さんが繰り返し発するある言葉が、自分を呼ぶときの言葉、つまり自分の名前であることも学習していきます。

こうして考えると、意味のある感覚とは、単に複数の感覚が同時に入力されることではなさそうです。

そこには、


左から声が聞こえた

左側に音源があるはずだ

左を向けば、その原因を確認できるはずだ


という関係があります。

つまり、感覚が意味を持つためには、身体と環境との間に成立する、ある種の論理性が必要なのではないでしょうか。

左から声が聞こえたと思って左を向いたのに、そこに誰もいなければ困惑しますよね。

これは、「左から音が聞こえれば、左側にその原因があるはずだ」という予測と、実際の結果が一致しなかったためだと考えられます。

こうした環境の規則性を予測する働きは、かなり早い乳児期から認められています。

すべてが生まれた後の学習によって一から作られるのではなく、生得的に備わった仕組みと、生まれてからの経験の両方によって形成されるのでしょう。


聴覚が意味を失った瞬間

話は少しそれます。

私は病院に勤めていた頃、突発性難聴になり、左耳があまり聞こえなくなったことがあります。

その頃、休日に家の玄関を出てのんびりしていると、カラスの鳴き声が聞こえました。

そこで、声が聞こえたと思った方向へ目を向けたのですが、カラスがいません。

探してみると、まったく違う方向にいました。

びっくりしました。

聴覚が信用できなくなった瞬間です。

現在はほぼ完治し、聴覚による方向定位にも問題はありません。しかし、聞こえにくかった頃は、生活の中で苦労しました。

後ろから聞こえる足音も、車を運転しているときに聞こえるほかの車の音も、どの方向から来ているのか分かりにくいのです。

サバンナだったら、おそらく死んでいます。

ライオンがうなりながら近づいてきても、姿が見えなければ、どこから襲われるのか分かりません。これでは身の隠しようがありません。

音そのものは聞こえています。

しかし、その音から環境の状態を正しく推定できない。

私にとっては、聴覚が意味を失った瞬間でした。(^_^;)


神経回路に論理は存在するのか

話を戻します。

赤ちゃんであれ、ほかの動物であれ、地球上で生きるためには、地球上に存在する規則性を利用できなければなりません。

支えを失った物は下へ落ちる。

音源へ近づけば、音は大きくなる。

左側に音源があれば、左右の耳に届く音の大きさや時間に差が生じる。

こうした環境の規則性を検出し、次に起こることを予測し、それに応じて行動する必要があります。

とすれば、神経細胞やシナプスがつくる回路によって、論理性をもった情報処理が行われているのではないか。

そして、グリア細胞なども、その情報処理が成立する環境を支えているのではないか。

私は直観的に、そう考えました。

私が思いつくくらいのことなら、きっと過去の科学者も考えているはずです。

そこでいろいろ調べてみると、やはりありました。(^_^)


マカロック=ピッツのニューロンモデル

1943年、神経生理学者ウォーレン・マカロックと論理学者ウォルター・ピッツは、次の論文を発表しました。

A Logical Calculus of the Ideas Immanent in Nervous Activity

日本語では、「神経活動に内在する観念の論理計算」などと訳されます。

二人は、神経細胞の発火と回路の接続構造によって、命題論理を実現できることを数学的に示しました。

単純化すると、次のようになります。

論理・機能

回路の条件

OR

AかBのどちらかが入力されると出力する

AND

AとBの両方が入力されたときに出力する

NOT

抑制性入力によって出力を止める

IF A→B

ある時点のAが、次の時点のBを生じさせる

状態保持

再帰的な結合によって、入力後も活動状態を一定時間保持する

例えば、カラスの声が左側から聞こえた場合を単純化すると、


左右の耳に届く音の大きさや時間に差が生じる

音源が左側にあると推定する

眼球や頭部を左へ向ける


といった情報処理を考えることができます。

面白いですよね。


ただし、マカロックとピッツは、最初から複雑な循環回路をすべて含めて考えたわけではありません。

理論構築の手がかりとして、まず循環を含まない比較的単純な神経網から検討を始め、その後、活動が回路内を循環する神経網についても理論を拡張しています。

循環回路が加わると、ある時点の入力だけではなく、過去の活動状態がその後の情報処理に影響するようになります。

ただし、ここで扱われている循環回路は、現在知られている大脳基底核ループや小脳―大脳皮質ループなどの解剖学的・生理学的な神経回路そのものをモデル化したものではありません。

あくまで、神経活動を大幅に単純化して論理的に記述したモデルです。

したがって、以下のような条件をもとに考えられています。

  • 発火は完全な0か1

  • 閾値は固定されている

  • 抑制性入力があれば出力は停止する

  • シナプス結合は基本的に固定されている

  • 樹状突起の位置や働きは考慮されない

  • 神経修飾物質や神経集団の同期は扱われない

  • 身体と環境との間を循環する情報は、ほとんど扱われない

このモデルが示したのは、実際の脳がそのままANDやORという記号を用いている、ということではありません。

興奮、抑制、閾値、時間差、回路の接続などを組み合わせることで、神経回路が論理的な情報処理を実現し得る、ということです。


実際の行動は単純なA→Bではない

マカロック=ピッツのモデルでは、循環回路を含む神経網についても検討されています。

私が考えているのは、そこからもう少し先の話です。

実際の神経系は、脳内だけで完結しているわけではありません。

神経系は身体を動かし、身体の運動によって環境との関係が変化し、その変化が再び感覚情報として神経系へ戻ってきます。

つまり、


神経活動

身体活動

環境との関係の変化

感覚入力

再び神経活動


という閉じた循環の中で情報処理が行われています。

神経回路が、こうした身体と環境との間に存在する規則性を取り込み、その回路的な論理によって感覚に意味を与え、状況に応じた行動を選択しているのではないか。

私が考えている「感覚論理」は、そうした脳・身体・環境をまたぐ情報処理です。

実際の生物の行動は、「Aが起きれば、必ずBが起きる」という単純なものではありません。

同じ感覚が入力されても、現在の身体状態、周囲の環境、情動、過去の経験などによって、その意味や選択される行動は変わります。

例えば、

空腹を感じている。目の前に食べ物がある。その結果、食べるという行動を選択する。

これは比較的、単純な関係として説明できます。

ところが、目の前に自分と同じように空腹を感じている人がいたら、どうでしょう。

空腹を感じ、目の前に食べ物があるという条件は同じでも、そこに第三者の存在が加わることで、

  • 自分で食べる

  • 食べるのを我慢する

  • 相手に譲る

  • 二人で分ける

など、複数の行動が考えられるようになります。

自分の空腹感と食べるという行動との間に、第三者の存在という環境因子が加わり、さらに過去に獲得した社会的な経験や価値判断も働きます。

それらの条件によって、どの神経回路がどの程度働くのかが変化し、そのまま食べたり、食べることを抑制したり、相手と分けたりする行動が選択されるのでしょう。

したがって、私が考える「感覚論理」とは、「Aが起きれば必ずBが起きる」という固定的な関係ではありません。

身体内部の状態、周囲の環境、そこから得られる感覚、過去の記憶などが組み合わされ、その状況に応じた意味づけと行動選択が生まれる、文脈依存的な論理なのです。

こうした処理の多くは、意識的に考えてから行われるものではないでしょう。

まず非意識下で感覚情報が統合され、身体や環境の状態が推定されます。その結果の一部が必要に応じて意識され、思考という形を取り、言語化されるのではないかと私は考えています。

つまり、生物がこの地球上、あるいは日常生活の中で利用している規則性の多くは、最初から言葉で理解されるのではありません。

まずは知覚を通して非意識的に検出され、「何となく分かる」「こちらにある」「こうすればよい」という気づきとして利用される必要があるのではないでしょうか。

このような情報処理が、脳内のどこで、どのように実現されているのかは、私にはまだ十分に説明できません。

神経細胞とシナプスがつくる回路を基盤として、行動の評価や選択には大脳基底核ループ、感覚結果の予測や誤差の修正には小脳を含む回路、身体や環境の状態推定には感覚野や頭頂葉などが関係しているのでしょう。

さらにグリア細胞も、こうした神経活動が成立するための代謝や細胞外環境を支えている可能性があります。

ただし、これらを一つの「感覚論理」として説明するには、まだ多くの検討が必要です。

この辺りを本格的に研究したら、数十年後には、いっぱしの研究者になっているかもしれませんね。

残念ながら、研究者になる前に寿命が尽きそうなので、研究者になるのは諦めて話を先へ進めます。(^_^;)


中枢神経疾患に対する感覚入力

ここまで考えると、中枢神経疾患に対する「感覚入力」の意味も、少し違って見えてきます。

脳卒中後には、それぞれの感覚が完全に失われていなくても、身体活動に伴って生じる複数の感覚情報を結びつけ、その関係を身体の状態推定や次の行動に利用する働きが弱くなっている可能性があります。

感覚は、ただ脳へ入ればよいわけではありません。

身体活動や環境の変化との間に、理解可能な関係をもって入力される必要があります。

たとえ話ばかりで申し訳ありませんが、立位で身体重心を右方向へ移動させる場合を考えてみます。

このときには、

  • 右足底に加わる圧が増える

  • 右下肢の支持活動が高まる

  • 視覚的にも身体位置の変化が生じる

  • 前庭感覚も身体の右方向への移動を伝える

  • 身体が崩れず、右下肢の上で安定する

といった変化が起こります。

これらの感覚情報が、身体活動と対応しながら、時間的にも空間的にも理解可能な関係として結びつく必要があります。

したがって、

意味のある感覚入力とは、単に刺激を与えることではありません。身体活動と環境の変化に対応した多感覚情報が、時間的・空間的に理解可能な関係として生じ、神経系がその関係を次の行動に利用できるようにすることです。

ということになります。

ここで重要なのは、感覚同士の齟齬を完全になくすことではありません。

予測した感覚と実際に生じた感覚との小さな違いは、身体活動を修正するための重要な情報になります。

問題になるのは、身体活動と感覚結果との関係が、患者さん自身には読み取れないほど破綻している場合です。


徒手的操作は何をしているのか

脳卒中後には、自分では右へ重心を移動させたつもりでも、骨盤が後方へ引けたり、股関節や足部が不安定になったりして、意図した身体活動と実際に生じる感覚との関係が分かりにくくなることがあります。

そのような場合には、身体活動と感覚結果との関係が読み取れないほど破綻することを防いだり、必要な感覚情報を強調したりするために、徒手的操作が必要になることがあります。

徒手的操作とは、

患者さん自身の運動出力、身体活動、それに伴う多感覚情報、そして運動結果が、理解可能な一つの出来事として結びつくように、身体条件を一時的に調整する手段

であると言えるのではないでしょうか。

ただし、その徒手的操作には技術的な課題が生じます。

セラピストが主導して動かしすぎると、


セラピストが操作する

患者さんの身体が動く


という関係が強くなります。

一方で、本来成立させたい、


患者さん自身が運動を出力する

身体が動く

感覚が変化する

環境との関係が変わる

その結果を次の行動に利用する


という関係は弱くなってしまいます。

したがって、徒手的操作とは、セラピストが望ましい運動を外から作って与えることではありません。

患者さんの身体活動と、それに伴う多感覚情報や運動結果との論理的な関係が成立するように、一時的に身体条件を調整することだと言えるのかもしれません。

そして、患者さん自身がその関係を利用できるようになれば、徒手的な補助は減らしていく必要があります。


ボバースにおける徒手的操作

以下は、私個人の意見です。

ボバースにおける徒手的操作は、セラピストが患者さんに「正常な感覚」を入力するためだけの技術ではないと、私は考えています。

脳損傷によって利用しにくくなった、重力、支持面、自分の身体、周囲の物体などとの関係を、患者さん自身が身体活動を通して再び理解するための操作です。

言い換えれば、患者さんがこの地球環境の中で、身体をどのように組織すれば安定し、動き、環境へ働きかけることができるのかを再学習するための補助なのです。

地球環境には、重力、支持、摩擦、慣性など、さまざまな規則性があります。

身体活動に伴って生じる視覚、前庭感覚、体性感覚なども、その規則性に従って変化します。

徒手的操作とは、患者さんの身体活動と、それに伴う多感覚情報との関係が読み取れないほど破綻することを防ぎ、必要な情報を適度に強調することによって、身体と地球環境との関係を再び利用できる形で経験してもらうためのものではないでしょうか。

それは、「正常な感覚を入れること」ではありません。

患者さん自身が、重力のあるこの地球環境の中で、どのように身体を組織し、安定し、動き、環境へ働きかければよいのかを再学習するための補助なのだと、私は考えています。


終わりに

脳損傷が起きると、神経細胞やシナプス、神経細胞外環境に大きな変化が起きることになります。

それは即ち、人間という動物が地球環境を論理的に取り扱うための物理的構造基盤が崩れていることを示すのだろうと思います。

すると、脳損傷によって、地球環境において自分自身の身体をどう取り扱うべきかという論理的演算〜情報処理に問題を抱えることになるのだろうと推測できます。

従って、脳損傷リハビリテーションにおいて、地球環境上の論理性を、もう一度、身体と脳の情報処理システムに取り込んでいくことが大切なのだろうと思うのです。

身体と脳が、地球環境を理解することが出来れば、地球環境に対する適応的行動の試行錯誤がアクティブに行われることになるのだろうと思います。

大きく言えば、地球環境・身体・脳を再び結びつけるのがリハビリテーションの究極的な目標だと考えています。



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