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意識という無意識〜歩行という目標

「無意識に意識してしまう。」って言う表現が出来ますよね。

意識って言葉は不思議。


近年の脳の研究においては、意志というのは脳が無意識下で決定した行動情報が左脳に送られることであたかも意思が行動を決定したかのように感じさせているだけであると言うことが言われていたりします。

脳の情報決定を修飾するように情報処理しているだけということですね。

簡単に言うと、意志が脳の情報処理を決定しているのでは無くて、脳の情報処理を、すべてが決定された後から意志として感じているだけなのです。

「自由意志」という言葉があります。意志で行動を制御するという意味合いだと思うのですが、どの程度まで意思が行動決定に関与しているのかを証明するのはとっても難しいので、まだ論議されているところです。現在のところ、意志の関与で、起こそうとした行動を止めることが出来るという所までは言われている様子です。


さて、「意志」というものが、脳が無意識下におこなった決定を修飾するだけのものだとします。

例えば「近所を散歩してご近所の人と挨拶や話がしたいから歩きたい。」というニーズがあったとすると、どう解釈できるのでしょうか?

解釈は色々出来ると思いますので、本当に例えばではありますけれど。

ご近所さんとお話がしたいというのは、本人が生活するコロニーでの生存のため、一定の集団の中で自身が存在していることを明示すること、コロニーの中でなにかしらの役割を遂行することが可能であることを示して生存や環境への適応の可能性を高めることを表出していると考える事が出来るかと思います。その際の歩行というのは、ただ歩ければ良いという歩行では無くて、生存や環境適応のための歩行です。話をしながら歩けたり、会話の内容によっては立ち止まってしゃがんだり道路に落ちているものを拾ったり。場合によっては車を避けて道路から横のあぜ道に入ったりしながら歩くという事です。そういった事が出来なくなったことから、脳はアラートを出してどのような行動選択をするかと言った脳の無意識下でおこなわれる情報処理があって、それが左脳に送られることで言語化されたものが「近所を散歩してご近所の人と挨拶や話がしたいから歩きたい。」と表出して自分自身では結果の出せなかった行動決定のための情報処理について無意識下で他人に依存(尋ねる)という行動選択をしたということになるのでは無いかと解釈することが出来る様に思います。


そういった脳の情報処理について、装具と杖を使えば歩行が出来たとか、何メートルを何分で歩けると行った事は評価の指標にはならないでしょう。たぶん。

いや、大事な要素なんですけれど、それは要素にしか過ぎないわけです。先のブログで書きましたように、要素をどれだけ集めても全体を示すことは出来ないのです。


ま、だから、前回、目標なんて在っても無くても良いといった書き方をしたのです。

この場合、目標があるとすれば、無意識下の情報処理が滞りなく行えるようになって、快適な脳の情報処理となるような歩行といった言い方が出来るのかも知れないです。

そういった歩行とはどのような歩行なのかという事と、どのようなところでそれが出来なくなっているのかと行った事を追求すべきなのかも知れないですね。


近所の猫が通りすがってこちらを見ているとき、無意識下に可愛いと言ったポジティブな情動が生まれ、その情動が無意識下に歩行のパターンを変えて猫に近づいてしゃがむ。

猫がよってきてその猫をなでる。脳は無意識下でその情報処理をして猫をなでたことで報酬物質が出る。その一部の情報処理が左脳に渡り、「可愛い猫だから近寄ってなでた。なでたらゴロゴロ言って可愛かった。」などとあたかも意志が脳の情報処理を促したかのように自身の行動を理解する。こんなふうになったらとっても快適で素晴らしいですね。


猫が近寄ってきても、自分が近寄れずしゃがめず猫に触れることも出来ないと脳が判断して、それでも以前の記憶から猫をなでると脳の中で報酬が出ることを脳は知っているので、その報酬を出せないことに対してなにかしらの理由をつけてくる。そうするとそれが、目的となってしまう。

まぁ、それはそれでいいのですけれど、だけど、脳はあらゆる環境の中で報酬が最大になるように情報処理をしたいので、これだけをとってもとやっぱり一つの要素にしか過ぎないのでしょう。

多分目標なんかそんなものだろうなと思います。

取りあえず、

「通常、人は環境の変化に応じて無意識下で移動パターンを変化させる事が出来る。それが陸上で両下肢を利用した移動手段で有る場合、歩行(走行)と呼ばれる。」といったことは忘れてはならないと思うのです。


さて、私がこんな文章を書いたのは、無意識下にどのような情報処理をおこなった結果なのでしょう。

(^^;

それは私にとっても大変興味深い所ではあるのですが・・・

簡単に言ってしまえば私の今の状況で、社会的な生存確率を高めるための手段なのだと思います。自分の考えていることを情報発信して、周囲に認知していただくことが私の生存確率を高めると脳が勝手に判断しているのだろうと。そう思うのです。

だから、忙しいときにはあんまり書こうという気分にならないのですが、ちょっと暇だと何だか書かなくてはいけないとか、書きたいような気がしてくるのです。脳が勝手にそんなムードを作り出しているんでしょうね。

٩( ᐛ )و



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