受動意識仮説と自由意志という幻想
- Nagashima Kazuhiro
- 19 時間前
- 読了時間: 9分
受動意識仮説について、文化は科学の受容を妨げるのかといった側面を考えていきたいと思います。
これだけ書くと、なんのこっちゃですね…
(^^;
まず、「意識」という言葉を簡単に説明しておきます。
医療において、「意識」という場合には大きく二つの意味が存在しています。
一つは”覚醒”の状態を指す言葉です。意識があるとかないとか表現するような言葉の意味ですね。
二つ目は、もっと広範に捉えて、自分自身と外的環境の中で生み出される”意図”とか”好み”や”注意”など様々な情報を表している言葉としての”意識”です。例えば、「あの人を意識した」とか「そういったことは意識になかった」とか、そういった文脈に用いられる「意識」という言葉ですね。
受動意識仮説では、この二つ目の「意識」という言葉を取り扱っています。
まず初めに「受動意識仮説」とは何かという話題から入っていきたいと思います。
通常、意識が私たちが取るべき行動を選択していると感じているわけです。これを「自由意志」と呼んだりします。
近年の脳科学の分野では、こうした自由意志が全ての行為に先行して存在しているという立場とは異なる可能性を指摘しているのです。
つまり、行動の選択は脳の無意識下の情報処理によるものであって、その後に意識と呼ばれる情報が作られている〜意識は受動的なものであるという仮説ですね。
受動意識仮説に関わる実験では、ベンジャミン・リベットのものが有名です。
リベットの実験の概要を紹介しますね。
1. 被験者に時計(オシロスコープ上のドット)を見ながら「今、行動したい」という瞬間を意識的に覚えてもらいます。
2. 同時に脳の準備電位(readiness potential)をEEGで、運動の実行は筋電図(EMG)で記録します。
3. 結果として、意識的に「行動しよう」と感じる約0.2秒前に、すでに**準備電位が始まっている(約0.5秒前)**ことがわかりました 。
というものです。
リベットはこの実験によって、脳の情報処理としては「意識」より「行動情報」が先行していて、その後に「意識」が生じると考えたわけです。
もちろん様々な議論が起きていて、当然この解釈に対して、例えばSchurgerらによる「準備電位は行動を意味しないかもしれない」説といった批判的な意見もあります。
では、もう一つの視点で受動意識仮説について考えてみましょう。
現在の神経生理学的な立場からいうと、現在も研究中ではあるのですが意識というものがどこで生み出されているのかということに対してはまだ答えが出ていません。脳の領域で、「意識の座」と呼べる場所は無い、もしくはまだ見つかっていないのです。
反面、脳の情報処理として、意識が存在していなくてもヒトは環境に対して適切な行動を起こすメカニズムはある程度わかっていたりします。
2006年の高草木先生の資料から図をお借りします。

あ、勘違いされては困るので、一応書いておきますが、2006年の高草木先生が受動意識仮説を支持されていたということではなくて、単にの脳の情報処理のお話の例として出された図なのです。講義の内容を思い出してみると、確か「意識」についてはまだよくわかってないという立場を取られておられたと記憶しています。
まぁ、簡単に説明された図ではありますが、燃えている火を視覚的に捉えた情報は眼球から外側膝状体を通して後頭葉に送られ、その情報は頭頂連合野で知覚され、前頭葉にその情報が送られると何かしらの行動計画情報に変換されてそれが運動野に受け渡され行動が出力されるという情報の流れが示されています。
前頭葉は、情動などの無意識化の情報や、それまで経験して学習してきた無意識化の記憶であるとかを参照しつつ、頭頂連合野から送られてきた視覚情報などの情報と共に、その状況における最良の行動を基底核ループの情報処理システムで、自分の置かれている状況と外的環境の中で最も適切である行動を選択することになるのです。
ここには意識という情報は介在していないですよね。
こうしたことを合わせて考えると、リベットの実験や解釈に様々な問題があったとしても、おそらくではありますが現在の脳科学では受動意識仮説が最も有力な「意識」に関わる仮説なのだろうと私は考えているのです。
受動意識仮説の概要についてはこのくらいにしておきます。
さて、受動意識仮説がある程度正しいと仮定すると、なぜ受動意識仮説の研究があまり進んでいない様に見えるのかという疑問が出てきますね。
脳科学的に正しいのであれば、もっと研究がたくさん行われていてもいいはずだと思うのです。
そこで私が着目したのが、宗教的あるいは文化的な背景の影響があるのでは無いかという直感だったりするのです。
脳科学者は人口的に欧米の文化圏におられる人たちが多いわけです。ちゃんと比較したわけでは無いですが、少なくとも日本の脳科学研究者より欧米の脳科学研究者の方が人数的に多いだろうと思います。(^^;
例えばですが、欧米の文化圏での宗教というとキリスト教が思い浮かびますよね。
私はキリスト教徒では無いのであまり詳しくは無いのですが、
キリスト教における「魂」や「自由意志」は、人間の尊厳や倫理の根幹にあるのだろうと推測しています。キリスト教的倫理観においては、「人間は自らの意思で善悪を選ぶ」ことが前提であり、これによって「罪」や「責任」が成立しているのでしょう。
したがって、「人間には自由意志がない」「行動はすべて無意識の反応であり、意識は後づけだ」とする受動意識仮説は、神学的・倫理的基盤を揺るがしかねない命題です。
こう考えると、次のような“文化的抵抗”が生まれる可能性があります。
• 「受動意識仮説は、人間の尊厳を否定するように感じられる」
• 「意識を軽視するのは危険だ」という倫理的警戒
• 無意識の決定論が「犯罪や道徳の否定につながるのでは」という懸念
もちろん、受動意識仮説の研究が進まない要因はこれだけではなく、科学的な証明の難しさであるとか、既存の学術的分野〜心理学や精神医学などは自由意志や自我を前提としていますので、こういった学術分野からの反発なども予測されますよね。
多分こうした文化的、宗教的な背景というのも「受動意識仮説」の研究を進める上で、ある種の障壁になっているのは多分間違いがないだろうと思うのです。
一方、日本を含めたアジア圏を考えてみます。
この地域においては仏教が一般的な宗教であろうと思うのです。他にも儒教や道教などもありますが、私は全く知らないのでここでは取り扱えません。
ちなみに私個人は日本人は八百万の神を信じていて、その中の一つが仏教なのであろうと考えているのですが、この辺を考え出すと一層ややこしくなりそうなので、とりあえず仏教という立場で解説していきたいと思います。
しかも私は多分、仏教徒でも無いのでキリスト教と同じく推論で述べるしかできませんけれど。
(^^;
仏教においては、自我を幻想的なものと捉えているのでは無いかと思うのです。
無我という言葉が表す意味ですよね。
有名なお経に、般若心経があります。
これも全文を理解しなければいけないのだろうと思いますが、とりあえず最初の件です。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
〜観音菩薩は、深い智慧の修行中に、
人間のすべての構成要素(五蘊)が「空」であると見抜き、苦しみを超えた。〜
五蘊とは、「色」「受」「想」「行」「識」を指すことの様です。
「色」は物質的な存在そのものを示す言葉
「受」は肉体的、生理的な感覚を示す言葉
「想」は概念的な事柄の認識やイメージを示す言葉
「行」は意識を生じる意思作用を示す言葉
「識」は認識作用を示す言葉
これらの五蘊は”空”である、つまり存在しないものだと言っているのでは無いかと思います。
そして有名な「色即是空 空即是色」です。
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識 亦復如是
〜舎利子よ、形あるもの(色)は空と異ならず、
空もまた形あるものと異ならない。
感覚・思考・意志・認識もすべて空である。〜
と解いているわけです。
脳科学的に解説してみると、
色即是空〜目に見えているもの(色)は脳に情報処理された結果で脳の内部に存在しているわけではないという視点から言えば実体を持たないもの(空)である。脳が脳の内部に外的環境を映し出したヴァーチャルリアリティの様なものといった感じでしょうか。
空即是色〜色即是空ではありますが、人は認識したものを現実であると感じてしまうので、何も無いものではあるけれど、認識した時点でその人にとっては実際に存在しているものでもあるといったことではなかろうかと。よくできたヴァーチャルリアリティの世界は脳は現実であると判断しちゃいますよね。あんな感じでは無いかと思います。
こういった人間に対する理解が仏教にあるとすると、受動意識仮説をそのまま受け入れる文化的、宗教的な土台があるといっても良さそうですよね。
おそらくですが、私が「受動意識仮説」を比較的スムーズに受け入れているのは、日本で生まれて、日本に住んでいるといったことも大きく関わっている様な気がします。
ちょっと話題が変わりますが、受動意識仮説を受け入れた場合に社会的な問題として犯罪などに対して「それを意識的に行なったか」という視点が犯罪を裁く上で重要になることがあると思うのですが、受動意識仮説においてはこの部分も否定してしまいそうに思われてしまいますよね。
これには、ちょっとした視点の変更が有効では無いかと考えています。
「意識」というものが受動的にであれ作られている背景には、「意識」という情報が何かしら生存上有効である理由が存在していると思うのです。
おそらくそれは、記憶です。
意識するということのメリットは、その行為に注意を向けて理屈を作り上げているということになると思うのですが、それは記憶のしやすさと直結します。
その記憶情報は必ず前頭葉の基底核ループで行われる行動情報選択にバイアスをかけてくることになる筈なのです。
したがって、その行動を選択した何かしらの記憶といった情報の背景を、仮に「意識」の情報として取り扱うことは可能ですので、犯罪などに対する対応も可能だろうと考えています。
この受動意識仮説がリハビリテーションにどの様に関わっていくのかということを考えてみると、おそらく最も影響を受けるのは脳卒中などの回復を考えた際のメジャーだろうと思っています。
随意運動という、意識させた動作はその意味が変わってくる筈です。例えば、手を挙げてといった時に手を挙げることができるかどうかという視点も大切かもしれませんが、例えば蚊が目の前に飛んできたら、無意識のうちに麻痺側の手で振り払えるといった動きの方が重要視されることになると思います。
ADLにおいても、それができるかどうかといった視点と共に、麻痺側を含む身体全体が無意識下で日常生活を遂行できているのかどうかという新しい視点が導入される様になるのでは無いかと予想してます。
おそらくこれ以外にも多くの影響、あるいは変化が起きてくると思います。
そもそも回復の概念が変わってくることになる訳ですから。
いかがでしたでしょうか。
「私たちは本当に“自分で考えて”生きているのだろうか?
それとも、そう“感じるように設計された”存在なのだろうか?」
どう思われます?( ^∀^)
受動意識仮説について詳細に解説している動画を見つけたので貼っておきます。
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