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全体は部分の和よりも大きい

更新日:3月9日


Quoraというサイトがあります。誰かが質問すると、その答えに長けた人が返答を書き込むというシステムのサイトで、結構面白いのです。

先日、

”「原子や分子が集まると「生命になる理屈」がよくわかりません。ただの物質なのにどうやって「意識を持つ」のですか?”

という質問があり、それに対する回答がとっても興味深かったのです。

以下、Petrosky Tomioさんの回答です。


「全体は部分の和よりも大きい」という言い回しをご存知ですか。

そのことを理解すると、生命現象では、いくら原子や分子をバラバラにしてその性質を精密に分析しても論じることができない重要な性質があることが解ります。そのような性質の典型的な例の1つが「意思」という概念で表現されているものです。

上で紹介した言い回しは自然科学で頻繁に使われる還元主義的な理解を戒めた言葉です。例えば、貴方は細胞の集合体でできています。だったら、その細胞の一つを取り出してその細胞だけを徹底的に調べたら、貴方の性格や人生の生き様がわかるかと言うと、もちろんそうではありませんね。

それでは単純すぎると言うので、もうちょっと理屈を複雑にしてみましょう。一つの細胞だけを取り出して徹底的に調べるのではなくて、体の各部分から代表的な細胞を一つずつ、十分の数を取り出して、それを徹底的に調べたら、貴方のことがわかるのかどうか。実はそれも無理です。なぜなら、そうやって取り出した各細胞は他の部分の細胞と相互作用を通じて情報のやり取りをやっているので、その相互作用を切り離して、各細胞の性質をバラバラに調べても、貴方のことはわかりません。このバラバラにすると言う行為が還元主義的な行為なのです。

要するに、AとBが二つ集まってくると、それは𝐴+𝐵ではなくて、AB+𝑉𝐴𝐵となります。ここで𝑉𝐴𝐵はAとBの間の相互作用を表す部分です。そして、数理科学で明らかにされているのは、相互作用の形に本質的に違う以下の2つの在り方があることが知られています。

1)線形な相互作用と呼ばれているものです。それは、この𝑉𝐴𝐵を通して互いに相手に影響を及ぼす場合に、単にAは一方的にBに影響するだけであり、また、Bは一方的にAに影響するだけのような特殊な相互作用です。

2)非線形な相互作用と呼ばれているものです。この𝑉𝐴𝐵を通して互いに相手に影響を及ぼす場合に、AがBに及ぼした結果Bが変化し、その新たに起こったBの変化が翻ってAに影響を及ぼして新たにAが変化し、その変化がまたBに影響を及ぼし、、、、とぐるぐると回って互いに影響し合うような相互作用です。

そして、1)の線形の場合には、色々な変数変換を施した結果、その新たな変数の間に相互作用がない互いに独立は変数を見つけることができ、全体の性質はやはり部分の和で書くことができることが知られています。従ってこのような単純な形は還元主義的に理解できます。

ところが、2)の非線形の場合には、どんなに変数変換を施しても、相互作用を消去できない場合がほとんどであることが知られています。ですから、全体を理解するためには、系を部分系に分けて部分系の性質の和として理解するという還元主義的に分析するのではなくて、系全体をひとまとめに理解しないと、その系を理解するにあたって本質的な事柄を削ぎ落としてしまうことがあるのです。

生命現象は、この非線形効果が典型的に現れている現象です。ですから、いくら原子や分子にバラバラにしてその性質を精密に分析しても、論じることができない重要な性質を削ぎ落としてしまっているのです。



回答はここまで。以下は私の受けた印象です。

まず、この回答に書かれたことが数理科学的に正しく、それを私がある程度正しく理解していると仮定します。さらに、こういった質問に対する見方は数理科学的な視点からだけでは無いかも知れないので、それらのことをご承知の上、読んでいただけると嬉しいです。


脳科学は進歩して様々な事が解ってきました。ある情報処理に特化した部位があることがわかり、運動野とか感覚野、視覚野など多くの領域が発見されてそれらが統合されていく連合野などの存在、高次運動野や頭頂連合野、基底核などの働き。ミラーニューロンの発見などなど、とっても多くのことが解ってきています。

しかしそれらは一つ一つが単独で機能しているわけでは無く、相互的な影響を請け合いつつ情報処理しているため、厳密に分類していけばすべて解るという事にはつながらなさそうだと感じ始めていたところ、今回のこの回答を読んだのです。AB+𝑉𝐴𝐵(特に、非線形相互作用)という見方は、脳科学を理解しにくさの原因であり、また、脳の可塑性による改善を目指すリハビリテーションの可能性を指し示していると思うのです。


一方、評価と呼ばれる視点からこの非線形相互作用の関わりを考えてみると、少なくとも人を理解しようとしてヒトの行為や活動をBr-SやADL評価、ROM、筋力、各種認知検査などに分類して検査しても、それの総和は(数理科学的には)ヒトでは無いということが出来るかとおもいます。むしろ特定の人を理解するというスタンスから離れて行っている可能性もあるのでは無いかと。

それぞれの検査同士もそうですし、検査の下位項目同士も非線形相互作用によって成立しているというのは、リハビリテーションに関わっている人であれば直観的に理解できると思うのです。

例えば、関節可動域と循環や筋力と循環、筋力と関節可動域などは非線形相互作用をもっていますし、それらとADLの関係も同様でしょう。

つまり、それらの検査はなにかを表しているようで何も表していない可能性があるのだというと言いすぎでしょうか?きっと言い過ぎですね。

(^^;

取りあえず、そういった視点から言えば、たとえばADLのみをリハビリテーションをおこなった結果の指標にしたりする行為があるとすれば、それは過ちであるという事は言えるのでは無いかと思います。

あ、FIM効率(利得)とかいったものを批判しているわけでは無いですよ。

もっと全体的なことを書いているつもりなのです。


そういえばFIM効率(利得)とかは厚生労働省の各種委員会に参加されておられたり各種病院委員会の理事などを務められておられる宮井先生が関わっておられたとお聞きしたことがあります。私などより数段頭の良い医師達が頭を寄せ集めて考えられたことなので、私など思いもよらない崇高な理念の元、提唱されておられるのだろうと思うのですよ。単純に考えるとリハビリテーションに関わるスタッフ達への嫌がらせや患者さんの脳の可塑性を制限するようにに見えたりもしますが、そんなはずはありませんよね。


さて、最初の質問のことを少し考えてみたのです。


「原子や分子が集まると「生命になる理屈」がよくわかりません。ただの物質なのにどうやって「意識を持つ」のですか?


脳は、身体外環境の変化や身体内環境の変化に適応するように自動的に無意識下で行為や行動/動作を決定します。意識というのは、脳の決定した行為や行動/動作を修飾し、あたかも意識がそういった決定を下したように見せかけるだけだというのが現在の脳科学的な知見となるようです。

ですので、意識を持ったように「見える」のは結果的なものです。行動様式は外的環境の変化に対して変容しているのであって、そういった側面は原子や分子が動いているのと余り変わらないという言い方も出来るのでは無いかと言う意見も成立しそうに思います。ただ、なぜ生命となるのかという点では説明は困難なのではありますけれど。それも生命の定義によるのかも。


「全体は部分の和よりも大きい」というのはアリストテレスから来ているみたいですね。

興味深いですね。



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