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させられ体験に見る意識の所在

統合失調症の症状の一つに、「させられ体験(作為体験)」というものがあります。

これは、自分の行った動作や行為が、自分の意思ではなく、何者かに支配されている〜操られているといった感覚になり、「〜させられている」などの意識が生じてしまう状態です。自我意識の障害とされているようです。


興味深いですよね。


当然そういったことはあり得ない事ですので、あらゆる動作や行為はその人の脳が下した情報処理の結果出現した動作や行為であるのです。ですが、それと意識が乖離するのですね。


さて、自分の行った動作や行為が自分の意思によるものであるといった思考を持つためには、自分の行った動作や行為が、自分が主体的に行ったことであるという感覚が必要になります。

これを運動主体感覚と呼ぶわけです。

運動主体感覚は、外的環境情報や身体情報などが頭頂連合野で統合されたものが、前頭連合屋に運ばれて特定の運動出力情報を選択あるいは生成して、その情報が運動出力情報として運動野などから身体に伝えられて運動出力となるとともに、その情報のefference copy(遠心性コピー)が頭頂連合野に運ばれ、運動出力結果と照合されることで、自らが行なった動作、行為であるという感覚になると考えられます。




この回路が機能しない状態、例えば、選択された運動出力情報が一次運動野に届いて運動出力にはなっても、その情報のefferencr copyが頭頂連合野に運ばれないと、頭頂連合野での情報処理では、自ら行う運動情報はないけれど、運動結果が生じているということになります。ですので、行った運動に対して、自らが行ったと感じることができなくなるわけです。結果的に「私が行っているのだけれど、それは私の意思ではなくて、誰かにさせられている。」とか、「電波が私を操っている。」などと意識される訳です。運動出力efference copyと自ら行った運動のfeedbackが一致しないため、その事柄を無理矢理納得させるための理屈が意識に上ることになると考えられるのですね。




こういった症状を分析してみると、やはり、「意識」と言われるものは、運動主体感覚の後に生じていると考える方が納得できるのです。

「させられ体験(作為体験)」から考えれば、少なくとも運動を制御する情報のefference copyが頭頂連合野に送られた後ということになりますので、運動制御プログラムに意思は関与していないということが結論づけられます。


さて、随意運動というものの正体が見えてきた気がしませんか?


させられ体験の患者さん本人にとってみれば、自分のおこなった運動というのは、他人に操られているわけですから、随意運動ではありませんよね。勝手に体が動いているわけです。

にもかかわらず、第三者的に観察すると、それは随意運動ということになります。そういった齟齬がなぜできてしまうのか?


随意運動という言葉が示すものは、意識に従った運動ということではありますが、そもそも運動出力情報は意識とは別のシステムで作られているわけです。


従って、随意運動という事象を正確に表現するのであれば、

「随意運動とは、脳に入力される外的環境情報と身体内環境情報の相互関係の中で、自動的に選択もしくは生成された運動出力プログラムによって引き起こされた無意識の運動。しかしその運動に関して、後から合理的に説明が可能な意識と呼ばれる情報が生成される運動のことを指している。」


ということですね。









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