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Over100の叡智

私は、自分が100まで生きることは無いと思っています。

ですので、100年以上をこの世界に生きた人の叡智に届くことはないでしょう。

ですので、少し興味があって本を買いました。

「一〇三歳になって解ったこと」篠田桃紅という方が書かれたエッセイ集です。

ぼちぼち読んでいるのですが、ちょっと興味深いです。

本文より少し引用させていただきます。



人は、用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、と言う近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。雑談や衝動買いなど。、無駄なことを無駄だと思わない方が良いと思っています。

無駄こそ、次のなにかが兆しています。用を足しているときは、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。

無駄はとても大事です。無駄が多くならなければ、だめです。

お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。安いから買っておこうというのも違います。無駄遣いというのは、値段が高い安いと言うことではなく、なんとなく買ってしまう行為です。何でこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、後で思ってしまうことです。しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。


〜引用ここまで


何を感じるかは人それぞれでしょう。

私は、今のリハビリテーション医療に同じような印象を持っています。

エビデンスがないものは行うだけ無駄だとする風潮はいったい正しいのでしょうか?


たとえば、FIM/BI/MMT/ROM/各種高次脳機能検査/WAIS等の知能検査/感覚検査などは、人の持つ要素にしか過ぎません。現存する検査をすべて行ったとしてもそれは人を表すための要素にしか過ぎず、その要素で人を表すために充分であるという証明はなされていません。

そんな中、FIMが改善しなければ、そこで行われたリハビリテーションのアプローチは無意味なのでしょうか?

FIMが要素にしか過ぎないので、FIMの改善は「人の能力の要素の改善」ではありますが、「人の能力の改善」と同じ意味ではありません。

と言うことはFIMを基準にしたエビデンスというのは人の能力の要素に対する根拠であって、人の能力が改善したといえるものではないのです。


繰り返しますが、例えばの話です。


だけどそう考えると、EBMも無駄と言うことが出来ます。

私が思うのは、無駄だから必要ないと言うことではありません。無駄だからEBMも必用なのだという考え方です。EBMは必用なのだと思います。今後の発展を考えると、一つの方向性ではあるのだと思います。ただ、無駄であるという意識は必用で、科学的根拠と言われるものの脆弱性と不安定性を想定した上で利用したりしていく必要があるのだと思うのです。

科学的根拠に基づき推奨されるものであっても、その根底は不安定な要素の集合による分析に過ぎませんし、科学的根拠がないとされるものであっても、現在の科学では解っていない或いは表現できない変化がある可能性があります。


病院などの施設でADLが自立していても、在宅で監視なしに生活が可能であるかどうかなんて判断が出来ないことってありますよね。だから、訪問に行ったり様子を見るための外泊であるとかの試みをしてみたりと色々な手段をとるわけですよね。逆にFIMとか十分に改善していないけど、この人、家では生活できるのではないかと言うこともありますけど。

車などの運転技能についても高次脳機能検査をいくらして結果が良かったとしても可能であるという判断に躊躇してしまうセラピストや医師もいることでしょう。

それらは、様々な検査をしたとしても、人の能力のすべてが解ると言うことではないためだと考えるのが妥当そうですよね。


人のすべてが解らない以上、ブルンストロームステージであるとか筋力であるとか、ROMであるとか高次脳機能など様々な要素に分けて改善を見てみても、それは「人の持つ能力の要素的な改善」であって「人の持つ能力そのものの改善」とは似て異なるものです。

ですので、その科学的根拠と言われるものも、要素を科学的に分析したものに過ぎませんので、「人の能力」とは似て異なるのです。


すべての情報は無駄であって、だからこそ必用なこと。

すべての手法は無駄であって、だからこそ必用なこと。


そんな視点でリハビリテーション医療を俯瞰してみると、また違った世界が見えるかも知れないなどと思ったりします。




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