次ぎに気になったのが、「状況意味」という言葉の意味です。
おそらくこの分析が中安の説を支えているものと思われます。
意味の認知について、「即物的意味」と「状況意味」に分類をされています。
即物的意味とは、その対象が何であるのかという意味を認知すること、状況意味とは、その対象がその状況の中で何を意味するのかという認知とされています。
私は、個人的に無意識下の情報処理システムで対象を知るという情報処理を「知覚」と表現して、それが意識に上る際に「認知」という表現をするように心がけていますので、ちょっと読みづらさがあるのではありますが、どうやら即物的意味というのは対象の知覚に相当し、状況意味というのは対象を認知した上での意味づけということになるのでしょうか。
脳が行う状況に対する意味づけのことを考えると、以前読んだ本に書いてあった実験のことをいつも思い出します。
うろ覚えで申し訳ないのですが、少し書いてみます。
とある集団に、エピネフリン(ノルアドレナリン代用薬)を注射で投与します。
その集団を2グループに分け、ひとつのグループにはエピネフリンを投与したことと、その薬の作用を説明します。別のグループには生理食塩水を投与したと伝えます。
その後、その2グループにそれぞれ、中が良さそうにしているカップルや高圧的な人物などに引き合わせて、どのように感じたのかをインタビューするのです。
すると、エピネフリンを投与されたと知っているグループは、その薬のせいで、ドキドキしていたとか、頬が紅潮したとか答えるのですが、エピネフリンを投与されたと知らなかったグループは、仲の良いカップルを見てドキドキしたとか、高圧的な人を見てイライラしてドキドキしたとか答えるのです。
このことから、脳は原因のわからない生理現象などについて何かしらの理由をつけたがる性質があるとし、それは必ずしも正しいものでは無くても、脳が納得できる理屈であれば良いのであると云った事がわかると云ったような結果を導き出した実験なのです。
脳というのは、外的な環境(状況)と自身の内的な環境について、何かしらの結びつき(意味)を造ってしまう情報処理の特徴があると云えるのだと思うのですね。
もちろん、これは生存のために有用な情報処理の特徴なのだと考えています。
例えば、湿度を感じる風が吹き始めていて、空の雲が黒く低く見える際に、雨が降りやすいという関連付け(その状況の意味)を脳が行っているのであれば、急いで雨が降っても大丈夫な環境に身を置いたりできますし、環境適応に有利なのですね。
ところが、雨が降ってきたと云うことがそのほかの情報と組み合わさらない場合や、想像を絶する雨であったりすると、意味づけが暴走して、「神が罰を与えた」と考えたりなんかするケースもあります。宗教ですね。
一応。宗教を悪いこととして表現しているのではありません。情報処理の特徴から、こういった意味づけもあり得ると云っているだけです。
おそらく、こういった情報処理上の特徴から意味を作り出した、その意味の事を「状況意味」と呼んでいるのだろうとは思います。
そうすると、「状況意味失認」とは、明らかに状況に対して誤っている意味づけを脳が行ってしまった際のことを指すのだろうと云うことになるのですが・・・
実は、これって、思春期あたりに皆さんご経験があるのでは無いかと思ったりします。
ありとあらゆる事が自分に関連しているかのような感覚~自意識過剰というような感覚ですね。大なり小なり、おありだったのでは無いかと思います。
気になる異性の仕草を見て、自分に気があるのでは無いか、あるいは嫌われているのでは無いかとか考えてしまうのは、そういった場合もあるかもしれませんが、多くは間違いであったりするのですが、本人はほぼ確かなことのような気がしていたり。
記憶がありませんか・・・(^_^;)
結構あると思います。これなどは、状況意味失認と言えるのかもしれないですね。
ただ、大人になると、いろいろなことを経験し、その多くが気のせいであると云うことも知り、そういう思いがちょっと顔を出しそうになっても、抑制をするわけです。
基底核ループ~記憶などにも関わる辺縁系ループと、そこで行われる情報選択の影響を受けた認知ループの働きだと思うのですけれど。
ということは、辺縁系ループと認知ループのどちらが壊れていてもこういった状況意味失認という症状は出る可能性がありますね。
あ、ここで認知ループという名称を使っていますが、基底核の働きを考えれば、実際は無意識下の情報処理ですので、結果的に意識化する際に利用されるとしてもこの時点では無意識なのです。
先に書いたように私にとってこの認知ループというのは知覚ループと表現した方が適切だとは思いますが、一般的な名称を使っています。
(^_^)
これらの基底核ループの、モノアミン系やAch系などの広範囲投射系の局所的な問題や、広範囲に投射されている伝達物質の状況を適切にしておくためのアストロサイトなどの働きなどに問題が局所的に起きることが想定できるのであれば、こういった状況意味失認の情報処理の特徴が部分的に説明が可能であるのかもしれないですね。
どうなんでしょうね?
さて、まだ本は序盤ではありますが、中安が状況意味失認の例として書いた文章を参照させていただきます。
「例:「カトリック修道院の階段の上で、一匹の犬が直立した姿勢で私を待ち伏せていました。私が近づくと犬は真面目な顔で私を見て、一方の手を高く上げました。たまたま別の通行人が数メートル前を歩いていたので、私は急いでその人に追いつき、犬は彼の前でも礼をしたのか、急いで尋ねました。その人は驚いて否定の返事をしました。それを聞いた私は、自分が明らかな啓示と関わっていると確信しました」
中安なりに要約するならば、妄想知覚とは「知覚は正しいが、その意味づけにおいて過つ」ものであり、これを即物意味・状況意味論で理解するならば「即物意味の認知は正しいが、状況意味の認知は誤っている」事になり、すなわち妄想知覚とは、状況意味誤認であるといえる。ゆえに後に状況意味誤認が生じるという点からは、気づきの更新との規定にある失認は状況意味に関するもの、すなわち状況意味失認と云うことになる。
さて、これに永島が個人的な私見を加えていきます。
知覚とは、個人差があります。すべてのものが同じように見えるわけではありません。
実際、犬が直立して手を高く上げるという動作をするのは珍しい動きと言えるかもしれませんが、そういう動作を行う犬も見かけます。知覚というのは一定では無く、それが無意識下の情報処理において、人の動作のように知覚されてしまうことはあることでしょう。
つまり、知覚の時点では決して誤っているわけでは無いけれど、常識から外れている知覚であった可能性は否定できません。先に述べたように、知覚には個人差があるからです。
繰り返しますが、本当にそのように見えていた(知覚した)という事もあり得るのです。それを正しいというのか誤っているのかという事は論議が必要な部分でしょう。
この常識から外れている様な知覚情報が意識に上った際に抑制がかかることが社会通念上普通であるという事は云えるのかもしれません。
「たまたまそう見えた」とか、「犬に見えていたのは実は小さな人であった」とか。そんな感じの認知の仕方ですね。
こういった抑制が効かなかった場合、神の啓示であるとか云った発想が出るのは一般的なことと云えるのかもしれません。
人類は、昔からそうして神の存在を信じたり地動説を信じたりしていたりしていた訳ですから。
理屈がつかないものに、人知を超えた力の存在を想定するのは結構多く見られるのだとおもいます。
もちろん、中安の主張するように、知覚自体が正しい(脳にとっては、どのような知覚も正しいのではありますので、やや混乱を招く表現であるような気がします)けれど、その理屈づけが誤るというケースもあり得ますが、知覚自体が通常の概念から逸脱しているものが存在していると云うことは良くあることであって、それが抑制できないと云うところに問題がある場合も、結果的には超自然的な力の関与~神の啓示などを想定せざるを得ないケースもあり得るはずなのです。
つまり、状況意味生成の部分は正常に機能している場合ですね。
幽霊とかもそうですよね。
幽霊を見たという人に気のせいだと云っても納得していただけない場合も多いことを思い出していただければ、理解しやすいかも知れませんね。
さて、恒例ではありますけれど一応注意喚起です。(^_^;)
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