
昔、魚は痛みを感じないと言う説がありました。
いや、現在でもあると言っても良いのかも知れませんね。
魚は痛みを感じないと言う通説に科学的根拠があるとされはじめたのは、たぶん、2012年の「Fish and Fishers」という雑誌に載ったCan fish really feel pain?という論文だと思います。
アブストラクトを和訳した分を乗せますね。
「魚が痛みを感じると主張する研究をレビューし、痛みの識別、特に傷害刺激(侵害受容)の無意識的な検知と意識的な痛みの区別に使用される手法に欠陥があることを発見した。また、結果が誤って解釈されることも多く、再現性もないため、魚が痛みを感じるという主張には根拠がないままである。
無脊椎動物を対象とした研究にも同様の問題がある。対照的に、魚類の手術に関する広範な文献では、手術直後または直後には正常な摂食と活動が見られる。哺乳類に最も多く存在し、ヒトの耐え難い痛みの原因となるC繊維侵害受容器は、これまで研究されてきた他魚類には存在しない。Aδ型侵害受容器は、板鰓類ではまだ見つかっていないが、真骨類では比較的一般的なもので、おそらく迅速で侵害性の低い傷害シグナル伝達を行い、逃避や回避反応を引き起こすのだろう。明らかに、魚類はヒトや他の哺乳類に典型的なあらゆる種類の侵害受容を持たずにうまく生き延びてきた。この状況は、ヒトには痛覚に必要な特殊な皮質領域がないこととよく一致している。我々は、魚類に意識があるという最近の主張を評価したが、これらの主張には十分な裏付けがなく、神経学的な実現可能性も、意識が適応的である可能性もないことがわかった。仮に魚類に意識があったとしても、魚類がヒトのような痛みに対する能力を持っていると仮定するのは不当である。全体として、行動学的および神経生物学的証拠から、魚類の侵害刺激に対する反応は限定的であり、魚類が痛みを経験する可能性は低いと考えられる。」
板鰓類とは、サメとかエイとかのようです。で、真骨類が魚類を指すようですね。
この文章からは、魚類にはAδ型侵害受容器は存在しているという事のようです。侵害刺激に対する応答はあると考えても良い様ですが、このアブストラクトでは、それが意識化されないと「痛み」とならないといったスタンスで書かれているようです。
人でも意識と云うのは受動的だという説があるわけで、受動意識仮説をベースにこの論文の論理に基づくと、人にも痛みがないという事になりそうですけれどね。
「痛み」というのは、生存をするために必須の感覚様式であって、侵害刺激があった場合に、それがどの部位でなぜそこに注意が向くのか等の「理由」として痛みという概念が生じたものであって、情報処理の後に生じた「痛みの意識」自体は、記憶され、それを回避するため行動選択の情報処理にバイアスとして関わってくる働きがあるとは思うのですが、痛みの記憶が無いからといって痛みが存在しないという話は余りに短絡的に思えます。
まぁ、真面目に考えるだけ無駄なのですけれど。
なんと言っても、この論文を載せたのは、「Fish and Fishers」と云う雑誌なのです。
魚釣りの雑誌で魚には痛みがあるという事を認めたら、スポーツフィッシングは動物愛護協会から袋だたきに遭いますから、魚には痛みが無い方が都合が良いのです。
(^_^;)
魚とは話が変わります。
腰痛は勘違い〜心の問題とする見方を主張される人もおられたりします。
いや、最近では減ってきてるのかな?
そもそも「心」というのがどの様なものであるのか解っていないですし、「心」という訳のわからないものに責任を押し付けても何も解決しないと思うのではありますが・・・
痛みは心の問題とする流れを作ったのが、サーノ博士の「ヒーリングバックペイン」(1999)
と云う本だったと思います。違ったらゴメンナサイ。(^_^;)
痛みという概念は、侵害刺激と云う側面、侵害刺激の表現という側面、侵害刺激の記憶から来る自律神経系の働きの側面などが在るのでは無かろうかと思うのですね。
それらは、意識とか心とかとは別に考えなければならないのでは無いかと思うのです。
でないと、本当に侵害刺激受容器がなにかしらの原因で働いている時にさえ、それは気のせいであるという事になっちゃいそうですから。
純粋に、生理学的に侵害刺激がどの様なメカニズムで受容されているのかとか、また、それらの情報がどの様に脳で処理されていているのかと云った事から、目の前の人が、なぜ痛みを感じておられるのかという事を考えて行かないといけないのでは無いかなぁ等と、生意気なことを考えているのです。
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