障害受容のモデルとして、良く目にするのがコーンの分類です。
1:ショック期
2:否認期
3:混乱期
4:解決への努力期
5:受容期
ね、良く目にしますよね。
では障害受容とはどういった状態を指すのでしょう?
障害受容とは、「障害を直視し、障害に立ち向かい、障害と共に生きることも自己の生き方の一つであると受け止め、生活していくことである。」(清水里江子,2012)
ふと、障害受容について調べようと思い立ったのですが、Wikipediaには記事になっていませんね。(^_^;)
で、調べて最も多くヒットするのは上に引用させていただいた文章です。
だけどちょっと、私は違和感を感じるのです。
最近の私の記事をお読みであればもうお気づきの方がおられると思います。
一つ目の違和感
障害を直視・立ち向かう・自己の生き方と受け止める。すべて「意思」が先行している表現ですね。
脳の機能、自己身体認知やそれに伴う脳の行為プログラムの選択、そういった情報処理が結果的に,その時折の自己身体内環境と外部環境の中でそのときの脳が取り得る,脳の情報処理としての最適解が行為として現れているわけです。それに後で理由をつけて,あたかも「意思」が行為を決定したという風に感じさせているだけなのです。
「意思が行為を決定している。」というプロセスは基本的に存在しないと思っていた方が良さそうに思います。
二つ目の違和感
現在、脳の情報処理というのは、身体機能と心理機能を結びつける段階に来ているように思います。
臨床的にも、心理機能と身体機能は密接不可分で、どちらかだけを論じると言うことが難しいのは皆さんご経験されておられるのではないでしょうか?
例えば、円背気味で構造的に下の方向を見る時間が長い方がネガティブな言葉が多かったのに、円背が改善していくと表情も明るくなり積極的な発言や行動が増えたり。
例えばですが、それは抗重力伸展活動が減弱して円背になっている、あるいは、持続する円背によって、抗重力伸展活動が活性化されない状態というのは橋網様体脊髄路においてセロトニン系の働きが悪くなっていることが想定できるとおもうのですが、セロトニンは言うまでも無く報酬系に関わる物質であり、姿勢と心理という物を同列に情報処理をおこなっていると推察することができます。円背が改善すると言うことは、構造的な改善を示すだけでは無く、セロトニンの活動が活性化していることを示す場合も多く、そういった場合においては当然心理機能もよりアクティブになることが説明できます。
心理機能だけを取り上げる理論はすでに無理があるのだと考えられるような気がするのです。
三つ目の違和感
そもそも障害を受容すると言うことがそんなに大切なことかという疑問もあるのです。
人の脳は、身体内環境情報と外的環境情報の中で情報処理上の最適解を導き出すように機能することで、環境の中で進化してきたわけです。
外的環境の変化と自分の身体内環境情報のなかで適応的な情報処理が困難になる場合は、やはり不安やいらだちを感じて、脳はその不安やいらだちといった情報処理に対して何かしらの納得できる説明を構築するように作り上げられています。その中の一つの説明として、失われた機能が上がってくるのはいつでもあり得る情報処理です。
今、受容できたとしても、将来何かしらの環境の中で、障害のことが気になることもあるでしょう。それが当然なのです。
受容などしなくても、その場その場で報酬系を最大化させる、つまり楽しめることはあるのでは無いかと思うのです。それができなければ鬱といったことになるのかもしれないですね。これは、報酬系の問題ですので、そもそも基底核損傷などでドーパミン系に問題を起こせばそういうこともありうるわけです。それは器質的な問題であって、それをターゲットにした治療やリハビリテーションが必要だと言うことで、受容が問題と言うことにはなりませんよね。
あ、そうそう。
意地悪な話題ですけれど。
WHOが「老化」を病気だと位置づけして賛否を呼んだことは医療従事者であれば記憶に新しいと思います。
「老化」が病だとして。
老いたくないと考えていろいろ努力する人は、障害の受容ができていないと言うことになりますね。
私は良いと思うんですよ。老いたくないと思って努力する人がいても。そうでない人がいても。
それは多様性の問題です。
四つ目の違和感
特に脳損傷の場合、脳生理学的にはどのようなことが考えられるでしょうか?脳の循環障害、局所的な浮腫、神経細胞外環境の変化は、広範囲投射系に影響を与えるであろう事は想像できますよね。
どこに損傷が起きたとしても、おそらく前脳基底部からのAch投射は影響を受けるであろうと思います。Achの働きは、神経細胞の興奮性を抑えることで新しい興奮を起こしやすくする機能が指摘されています。
Achの枯渇は、いったん起きた興奮~情報が変化しないこと、そして、新しい情報を受け止めることができないことを指します。
そのような情報処理の中で、障害に対して適切な情報処理などできないですよね。障害というのは身体内環境の変化ですから。
情報処理システムの状態がそもそも変化に対応しにくい物となっているなっているわけです。
ショック期。否認期。混乱期。そういった概念を認めたとしても、それらは情報処理上の問題を抱えてそうならざるを得ない状況だと言うことができるように思いませんか?
解決への努力期。受容器。脳は、外的環境に対して最も報酬が期待できる情報を優位にしていくメカニズムを持っているわけです。言ってみれば、脳はいつも最適解を探して努力している。そして、その情報処理がうまくいくときといかないときがあるわけです。急激な変化が起きたわけですからね。
人の脳の情報処理は、個性的な物なのです。心理的な概念だけを取り出して、さらにそれをたった5つに分類している。
一体これで何を見ようとしているのでしょうね?
五つ目の違和感
例えば、脳卒中のリハビリテーションの結果はセラピストによって異なるのです。
私だと、その手を動かすことができないけど、先輩は動きを改善させることができているとか、そんな経験ありますよね。
私がそこまでしか引き出せなかった能力や機能、それに患者さんが納得できなければ、障害の受容は否認の段階としちゃうかも知れないですよね。だけど、それはセラピストの能力の問題も関連しているわけです。障害受容の概念が正しいとしても、患者さんだけの問題や課題として見るのは非理論的ですよね。
一般的に用いられている分類を何の疑問も無く利用して、目の前の人をそこに当てはめることでわかった気になるのではなくて、在るものを在るが儘に。知っている知識を動員して、なぜそのような行動や行為をおこしているのか。その情報処理を理解しようとした方が、より適切で、より思いやりのある対応につながるのでは無いかと思うのですよ。
そんなことを常々考えているので、「障害受容が・・・」とかの話を聞いたり見たりすると、「なにそれ?」と思ってしまうのです。
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