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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

私にとってのボバースコンセプトとは

更新日:2022年11月15日



私はインストラクターでも何でも無いので、私がボバースコンセプトを語ることは出来ません。

ただ、30年近くボバースコンセプトを学ばせていただいたので、「私にとってボバースコンセプトとは何であるのか」と言った個人的なお話ならばしても良いのかも知れないと思いましてちょっと自分の思考の整理と、このときはこんなことを考えていたという記録のために記事にします。(*^_^*)

まぁ、何で今、書こうと思ったかというと、様々な技術が生まれていて、エビデンスの有るもの無いものと言った分け方をされていて、かつて一緒に学んだ同僚たちが医師の期待に応えて様々な研修会に出て行くことになっておられるようで。 そんな中、こんな考え方もあるよと言った話を何となく伝えておこうかと思ったりしまして。


まず、科学のことについて。

科学っていったい何だろうと考えてみます。

ウィキペディアで、「科学」を調べてみると、以下の文章を見つけることが出来ます。


ー科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格なカオスを除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。ー


どうやら、科学とは私が若い頃に考えていた「普遍の真理・真実」を指すものでは無くて、もっと不安定なもののようです。


数学では、定理と言われる反証不可能なものがあります。美しいですよね。反証不可能ですよ。

ピタゴラスの定理とか、反証できないですよね。

反証されたらきっと「定理」とは呼べなくなるのだと思います。関係ないですが、フェルマーの最終定理というのがあります。xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないという事に対する証明をフェルマーが思いついたそうなのです。だけど、フェルマーは本に走り書きをするように証明を書かれるので、本の余白が思いついた証明を書くには狭すぎるという理由で、書かれることがありませんでした。フェルマーが亡くなられてから330年後、1995年にやっと証明されたというお話があるのです。面白いですよね。

さて、数学の定理は、約束事の上で成り立っています。例えば、1+1=2であると言った約束事です。

これは、数・量・図形などに関する約束事なのです。それ以外の所では成立しない場合もあります。



例えば、リンゴを4つに切ったものがあります。4個のリンゴですね。

この4個を合わせると1個のリンゴになるわけです。

これは、1+1+1+1=1と言うことになります。

数論では、1+1+1+1=4なのですが、自然科学〜有機物や無機物を対象とする学問〜では1+1+1+1=4という式は成立しない場合があると言うことになります。もちろん、1/4+1/4+1/4+1/4=1と言う表現も出来ますが、少なくとも、ここに示した3つの表現はいずれも間違いではありません。

これは、対象が、数・量などではなく自然のものであるという事によって引き起こされているのだと思います。つまりこの場合の違いは何を1と定義するのかと言うことに起因しているということです。

対象の定義が違うから、等式の答えが異なるということですね。


それでは、「科学が示すもの」とはいったいどういうものなのでしょうね。

もしかすると、こういった言い方が出来るのかも知れません。

「一定の定義、条件下で成立するであろう事柄であって、それが自然の中の事象について普遍の真実を示すものではない。」


じゃ、「科学」とはいったい何だろうと思っちゃいます。

科学者というお仕事というか、人達がおられますよね。あの人達って、真実を探し求めて実験などをされておられる人たちだと思うのです。だとすれば、科学とは、真実を探し求めることだという言い方が出来るのでは無いかと、そう思っているのです。これが私が今抱いている「科学」に対する考え方です。


そういった思考、視点に立つと「EBM」とかはいったい何を言っているのかという気がしてきます。


「科学に基づいた医療」

しかし、その科学自体に不確実性が存在している以上、すべてを信頼すべきではないのです。むしろ科学的であるためにはすべてを疑い検証しようとする姿勢が必用だと言うことになると思うのです。


さて、リハビリテーション医療のことについて考えて行きます。

人の姿勢や動きはどの程度わかっているのでしょうか?

ほとんど正確には分かっていないと言うことは言えるのではないかと思います。

構造を考えても、例えばFasciaと言われる組織のことも近年やっとスポットを浴びるようになってきているような状態です。感覚の事も、アリストテレスが五感に分けた分類に現在、様々な要素が付け加えられ、また新しい感覚の事も言われています。脳の情報処理に至ってはあからさまに研究途上です。

正確な情報などほとんど無いに等しい状態が人に関する自然科学なのです。


例えば、筋力という物を考えてみましょう。筋力〜握力においては力をKgという単位で表しましょうとか、MMTにおいては、0〜5という数値で表しましょうという約束事があります。しかし、それは1+1=2という約束事をしましょうと同じ類いの物であって、筋力という事象をすべて論理的に示すものではありません。

筋力と言われる関節を動かす最終的な出力にはパワーとトルクの観点からお話しすることが可能だと思うのですが、そのパワーとトルクを個々の組織の観点から考えると、例えば~筋繊維の収縮が筋内膜に伝わり、膜の組織から張力が周膜~外膜へと伝達される際に起きる摩擦などによって伝わる際の伝達効率のロスが生じるはずです。腱から骨に伝達され動きに筋の収縮が関節運動に変わる際に膜(腱組織)に伝わった張力に対して、関節内部に引き起こされる運動とそれに関わる抵抗等も関連があるはずです。脳幹の出力によって引き起こされる共収縮が皮質脊髄路の情報が脊髄に降りることで、脊髄の内部でも主動作筋に対する出力と拮抗筋に対する出力を相反抑制によってバランスを変化させることになりますよね。その調整の程度なども関連してくることでしょう。こうやって考えて行くと何がどのように起こって、最終的な出力となっているかなど何一つ明確に説明することは困難なのだとおもいます。そういった事は複雑だから、とりあえずKgや0〜5の数字に置き換えて解ったような気になっているだけです。だから、筋力増強訓練と行っても基本的には大雑把ですよね。いまだにどのような訓練が最も筋力を上げるのかといった疑問に対してはいろいろな説があったり、定説のような方法論も時代によって変わってきたりするわけです。

人によって構造もちょっとずつ違いますしね。筋繊維の数、筋幅の太さ、神経筋接合部の位置や数、Achの量、筋腱移行部の位置、筋紡錘や腱紡錘の数、接続される骨の長さや密度と言った条件がまったく同じ事などあるはずがないのです。それをおしなべて、Kgで表したり0〜5と言った数字で表しても何でそういう数字が出たのかなどといった事はわかりっこないのです。

脳のことは、さらにわかんないです。現在いろいろなことが解っては来ていますが、それでもまったく足りません。脳のシナプスによる情報伝達に加え、近年ではグリアの情報伝達への関わりや、細胞外成分の情報伝達の関わりが研究されつつある状態です。それらが分かったとしても、それですべてかと言えばそうでは無いでしょう。もっと色々あるはずです。

(ただ、動きや姿勢を見ると、姿勢の制御と運動の制御と行った2系統の制御システムの協調が必要そうであるというのは間違いなさそうであって、皮質のシステムと網様体のシステムがある程度役割分担をしているぐらいのことは正しいのだと思っています。)

そんな状況ですから、脳損傷のリハビリテーションと言ったことは科学的根拠によってなにかをすると言うより、科学的根拠を探し求めてセラピストと患者さんが最も環境に適応した状況を目指していくことが大切なのだろうと、私の中では結論を出しているのです。

ボバースコンセプトで大切にされている、「仮説検証作業」というのがそこにあたるのではないかと感じています。もちろん、仮説を作る為には様々な知識が必要になると言うことは言うまでもありませんね。


一番最初の写真をここにもう一度貼りますね。綺麗な写真でしょ。GR DIGITAL IIIで撮りました。(^^)/



女性がお二人、道を歩いておられます。

彼女たちは歩くことを目標に歩いているのでしょうか?

出口にたどり着くために歩いているのでしょうか?

たぶん違います。

彼女たちはたぶん探索をしているのです。

探索?何を?

それは、おそらく、心地よさや、美しさ。

心地よさや美しさの感覚は、安全であるという視覚的/聴覚的な刺激が、遺伝子が持つ先天的な記憶や後天的につくられた記憶の中で織りなす情報処理の結果です。

この先には一体どんな心地よさが存在しているのか?どのような美しさが心をうつのか?

そう言った無意識下の報酬期待からワクワクしながら歩行を継続されて無意識下で方向や速度などを選択したり調整して歩き続けているのだと思うのです。

脳自体の最終的な目的は、たぶん、さらに心地よさや美しさを感じることが出来て、脳の中の報酬系がしっかり働いていくこと。

(さらに身も蓋もない言い方をすれば、安全な範囲の確認ですね。本当に身も蓋もない・・・(^^;)

100メートルを何秒以内で歩かなければいけないとか、500メートルは歩かなくていけないとか、そう言った目標が有るわけでは無いのです。


そういった心地よさや美しさの探索といった快適な情報処理のお手伝いをするために。つまり、楽しいと思っていただくために私は患者さんとともに仮説を検証しつつ身体の動きや脳の働きの探索をしていく。たぶん私にとってはそれがボバースコンセプトなのです。


とはいえ技術研修はとっても面白いのですけれどね。

だけど、その技術がなぜ必要だったかとか、その技術から何が見えるのかといった事もとっても大事なんだと思うんです。

技術ありきでは無くって、コンセプトが技術をつくって、コンセプトが技術を変化させていく。そして生まれた技術がコンセプトを支えていく。そんな関係を対象となってくるおひとりおひとりに合わせて読み解くように考えて行くことがたぶん私たちの仕事なのだろうなぁと生意気にも考えております。個人的な考えなので、異論や反論があることだとは思います。

m(__)m


最後ですが、PTやOTやSTの仕事では、保険医療が求めてくることや医師の期待などに応える事も大切なのですが、最も大切なのは患者さんの期待に応えようとすることなのだと思います。

そこがしっかりしていれば、様々な事を学んでいくことは良いのでは無いかなぁと。そう思っています。

これは、今、病院で頑張っておられるかつての同僚たちへ。


頑張って‼ ٩( ᐛ )و

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