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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

物理法則を脳に届けるための感覚入力




脳の可塑性というのは、単純に言えば脳の情報処理の結果、良く用いられる回路が開発・強化され、使用頻度の少ない回路は減少・消失するという流れで起きるものと考えています。

そして、人の行動が自由意志を持っていないということであれば、脳が環境に対して適応するために環境情報を集め、行動決定の情報処理を行い、学習強化のためにそれらの行動選択とその結果について論理的解釈を加えたものが意志と呼ばれ、その記憶がさらに選択する運動や行動の選択といった情報処理に対してバイアス(無意識下)を加えるような形で人は環境に対して適応しているものと考えて良いと思っています。


ここで重要なのは、感覚だと思うのです。

ご存じの通り、脳は頭蓋骨に囲まれていて光も音も届きません。脳自体に感覚の受容器も存在していません。

脳は、真っ暗で静かな頭蓋骨の中で感覚受容器をもった身体と、それに付属している目、鼻、耳となどを道具として利用し、脳の外の世界の情報をかき集めて、脳の中に外の世界の環境を情報として再現し、その脳の中にある世界と本来の世界の情報を一致させることで適切な行動選択をしたり、適正な行動選択を探索したりするための出力情報を作り出していると言えますよね。

脳は、身体を利用して感覚をかき集めることで脳の中に世界を再現しているのです。 脳の中に再現された世界の中で適応するための出力情報を作り出し、或いは選択しているというわけです。

その脳の中でおきている可塑性とは、どんなものなのでしょうか?

ここで、ある実験を紹介しておきます。

視覚を失った人に対して、カメラをもちいて視覚情報を集め、コンピューターでその視覚情報を音情報に変換し、聴覚情報として入力するデバイスがつくられています。

このデバイスは、「vOICe」とよばれるものです。

このデバイスで利用されているアルゴリズムは、物体の高さを音の周波数・水平位置については立体音響(ステレオ)・物体の明るさは音量の大きさといった3つの要素に分けられているようです。

現在のものはもっと高度なものかも知れませんが・・・


このデバイスを使用した、20代の時に視力を失った青年は以下のように感想を述べていたそうです。

「2〜3週間もすると、音の風景の感覚がつかめてきます。3ヶ月ほどすれば自分を取り巻く環境の部分部分がパッと視界に飛び込んでくるようになって、そこに目を向けさえすれば対象の正体を識別出来ます。・・・それは視覚です。視覚がどういうものか、私は知っています。憶えていますから。」


興味深いですね。

この時大脳では何がおきているのかというと、vOICeを通じて得た聴覚情報は外側後頭皮質〜つまり視覚野〜の興奮を起こすようになっているとのことです。

聴覚野が拡張したという表現でも、視覚野が聴覚情報に反応したという表現でもどちらでも良いのでは無いかと思います。

いずれにしても、聴覚からの変換された音の電気的な情報は外側後頭皮質に接続され、視覚的な空間情報処理をされた結果、視覚として認識出来るレベルに達したと言うことが素晴らしいですね。


神経接続の変化というのは想像以上にダイナミックに起こるもののようですよね。


さて、ここで注目したいのは、アルゴリズムの法則性です。

物体の高さを音の周波数・水平位置については立体音響(ステレオ)・物体の明るさは音量の大きさといった一定のルールに則って情報を脳に伝える必要があるのは想像にがたくありません。

このアルゴリズムが、世界の情報を一定の法則に則って脳に伝えた結果、脳が音の情報を視覚情報として取り扱うことが出来るようになったのです。


ちょっと考えてみれば、この三つのルールが常に入れ替わったりしていたら混乱しますよね。さらにそのうちの一つでも不安定な要素があれば脳はそういった処理が行えなかったのだと思うのです。

例えば、物体の高さを占める周波数が、同じ高さでも変化するのであれば、脳はその情報を世界を知るために有益な情報として情報処理することが出来ません。


つまり、能の可塑性を生かすためには、世界の物理法則に則った情報を一定の法則に基づいて脳に届ける必要があるのです。


脳損傷の方の姿勢筋緊張は不安定ですよね。緊張が強くなって常に興奮状態であったり、或いは筋肉が緩んでいて多少の長さや張力の変化が検出出来なくなっていたり。それらが混在していて、しかも姿勢の変化で姿勢筋緊張が適切な状態に近づいたりより不適切な状態になることなどもよく見られます。また、循環が局所的に悪くなっていれば、感覚受容器も正常に働きません。

さらに、荷重を行っても、支持が出来たり出来なかったりと不安定な情報の中では脳は麻痺側を含めた身体を、世界を知るための有用な道具(情報源)として知覚(利用)する事が出来ません。


世界、その物理的な法則をもう一度、脳に送り届けるためにはなにかしらの工夫や介入が必用なのだと思うのです。

それがおそらく、徒手的な介入〜ハンドリングと呼ばれるものでは無いかと思ったりするのですね。


先日ご利用になられた人、お若い方です。

立ち上がる際に必ず非麻痺側上肢の支持をもちいられます。なくても出来そうだと思うのですけれど。

必ずなのです。

手を離して立ってみましょうと提案すると、「絶対無理!」

それでもしていただいたのですけれど・・・。ほら学習には、なにかしらのチャレンジは大切ですよね。


その人(の脳の情報処理)にとって、外的環境情報〜世界を知るための道具として麻痺側の手足を利用する事は想定外のことなのでしょう。

それは、非麻痺側上下肢を利用して世界を知り、片方の手足からだけの情報で構築された世界に適応するための運動情報に変換していくという情報処理過程を学んでこられたのだと推測することが出来ますし。


急性期から回復期にかけて、早期の自立を成立させるためには、非麻痺側を優位に使用して世界を知り、世界に適応するという情報処理システムの学習はとっても手っ取り早い手段なのだろうと思います。


ただ、それは、損傷した脳の可塑性を要求するものでは無いですよね。多分。


医療保険体制の中ですべきことというのはあると思いますし、それはとっても大切なのだと思います。

ただ、現在「脳の可塑性」という言葉がこれだけ一般的に言われるようになってきているにもかかわらず、リハビリテーションのあり方が変化していないとしたら、それはそれで科学に逆行していることになるのでは無いかと思ったりはするのです。


どう立ち回っていくのか?

多分、医療保険体制の方向性や、日本理学療法士協会とか日本作業療法士協会だけに任せるのでは無くて、セラピストであればひとりひとりが考えていくべき課題である様な気がします。



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