実は結構苦手というか、嫌いな議論だったりします。
まぁ、個人的な経験によるものなのではありますけれど。
「○○法、或いは○○コンセプトだけでは無い」
この言葉の意味は事実なのです。確かに世の中には様々なアプローチのコンセプトや手法が存在しています。
脳卒中で思いつくものを上げていきますと、
・ボバースコンセプト
・PNF(日本においては団体が解散したようですが、コンセプトが失われたわけでは無いのだと認識しています。)
・CI療法
・川平法
・認知運動療法
などなど。
まぁ、ひとつではないですよね。
ですので、「だけではない。」と言う表現そのものは妥当性があります。
頷くしか有りませんね。
だけどこの言葉は危険だとおもうのです。
その危険とは、何も学んでいない人でも、「○○法だけでは無いですよね。」という事実に基づく言葉で、なにかを学んでいる、或いは学ぼうとする人を批判或いは否定することが可能であるということにあると感じています。
実際、そういう議論をしてこられる方に、「では他に何があるのですか?」とお聴きすると、沢山の名前を挙げてこられます。で、「では貴方は何を学んできて何が出来るのですか?」というと、殆どがまぁ、何も学んでいないか、本を読んでやっておられたり、短い研修会に出て○○が出来ますとおっしゃいます。
何も学んでいないセラピストはともかく、本を読んでやっているとか短い研修会に出て○○をしていると言われると、まぁ、それはそうかと言うことにしかならないですよね。さらに突っ込んで、「ではそれはどのようにしてどのような変化が有るのですか?」などと聞いたりしたら、そういったセラピストは逆に、「○○法でも変化が出せないときは有りますよね。」と言ったような切り返しがきます。
ここまで来ると言葉遊びです。
余り建設的ではなさそうな気がしてしまいます。
面倒くさそうでしょ。
もちろん、やっぱり確り考えておられるセラピストはおられまして、そういった先生方と話をするのはとても面白いので好きなんですよ。知識的にも技術的にも交流が出来ると勉強になりますので。
以前良く交流をさせていただいていたPTの先生で海外にPNFを学びにいかれた方がおられて、その先生とのお話は面白かったです。PNFの技術は美しいですし。
というわけで、「○○法だけでは無いですよね?」という議論は余り好きでは無いというお話でした。
自分でそういったことを言いそうになった際には、自分自身がそういう表現に足ることをしてきたかどうか自問するようにしております。余りそういった表現が頭をよぎることは有りませんけれど。
ま、こんな風に後ろに手を組んで患者さんを「歩かしている」セラピストがおられるとすれば。
いや、仮定の話ですよ。こんなセラピストから「○○法だけでは無いでしょ?」と議論を持ちかけられたら、面倒くさいことこの上ないと感じてしまうのです。
(^^;
なにか一つでも、きちんと追求する姿勢って大事だなと思っているんですよ。
その上で色々学んで考える事が出来ればきっと面白い!(*^_^*)
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