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歩行と認知機能

私は、1994年にボバースコンセプトの成人3週間基礎コースを受講したのですね。

その時に、人の評価をする時に、モザイク的にMMT・ROM・Br-S・FIM・HDS-R・WAIS-R

・認知検査などなどを検査してそれでその人を表現し、理解しようとしても難しいのだというお話をお聞きしたと記憶しているのです。


その時はその時の知識や経験のレベルでなんとか理解していたのですが、臨床経験を積み、脳生理学を学んでいくと、徐々に理解の深度というのが深まってきました。

そんな経過の中、アリストテレスの「全体は部分の和より大きい」という言葉に出会ったりして、面白がったりしていました。

面白がって書いた記事はこちらにリンクを張っておきます。


まぁ、簡単に書いておくと、人の様々な行動や活動、機能は非線形の相互作用を持つものだから、個々の機能を取り出して検査しても全体は解らないという、まぁ、当たり前と云えば当たり前の事を書いています。


基礎コースを受講して十数年後。

多分、2007年ぐらいだったと思いますが、米子に久保田競先生が来られて脳生理研修会を開かれたことがあるのです。

参加させていただいたのですが、その時の講義の中で進化の中での脳の発達について


1)人の進化の過程で、脳が大きくなったのは手を使う事になった時期ではなくて、二足直立で歩き始めた時期


2)人をジョギングをするグループと何もしないグループに分けて、単純計算のテストをしたらジョギングするグループが優位に成績が向上した


3)MRIで検査をすると、ジョギング後に前頭葉を中心に脳循環が増えること


といったお話をされておられたのですね。

1)については、石器などの道具の形状などを分析すると、その石器をつくる際にどのような手の形が必用であったかと言った情報が逆算出来るようです。母指の対立運動などを含めた人特有の握りが必用だと考えられる石器が出現した時期と、人の化石から骨格を分析して時期を比較するとそういった結論(仮説?)が導き出されたようです。

以前は、手を使うことで脳が発達したと一般に考えられることも多かったように思いますが、現在ではおおよそ、骨盤にある股関節の位置や形態から二足直立でたった時期に脳が大きくなったものとされています。

この要因については、四足移動では移動に胸郭が影響されるため、呼吸による酸素供給が安定しなかったと推測されるのですが、二足直立になって胸郭への影響が少なくなり、長距離移動が可能となるわけですが、移動の最中に脳由来神経栄養因子(BDNF)が放出されやすいので、そういった影響が推測されたり、構造的に四足獣の頭部を支えるためには大きな出力の筋活動が必用なのですが、二足直立になることで筋肉が頭部を支えるという活動からある程度解放されたことなども影響を与えているのではないかと言われたりしています。


いずれにせよ、人の祖先が狩猟といった形で食料を調達するためには、食料のありそうな所を記憶し、そこに移動すると云うことと、移動中の安全を確保するために、その時の状況に応じて目的地までのルートを変更したりすることが必要になってきますし、住居を決める際にも、周辺の環境で危険があるかないかを判断しながら探索する必要がありますので、移動に際して多くの認知機能を働かす必要はあったと考えられますよね。

(まぁ、こういった事実は人だけに当てはまるものでは無く、ほぼすべての動物は危険を回避しながら移動を行うので認知機能と運動機能は一緒になって働いていると言って良いのですが、人特有であるのはやはり二足直立を獲得していると云うことなのでしょう。)


こういったお話を書いていると、石器時代などの人の脳と現代の人の脳は既に異なるのではないかと言う意見もあるかも知れませんね。

アンディシュ・ハンセンと云う医師が、「運動脳」という本を執筆されておられ、この本の中で面白いことを書いておられました。

人類の歴史〜人類誕生を午前0時として現在を午後12時として表現すると、人類が誕生してから狩猟生活が午後11時40分まで続き、工業化が始まったのは午後11時59分40秒。インターネットによるデジタル社会が始まったのは、午後11時59分59秒。つまり、現在の状態は1秒で構築されたものだそうです。



これでは、脳の変化がそこまで起きているわけでは無いと言えそうですよね。

というか、私は人間以外の動物も人もそこまで違う構造ではないと思うのです。

だからこそ、ラットや猫の実験で人の脳の働きを推測しながら脳科学を展開してくることが出来たわけだと思います。

ま、それはおいといて・・・・

(^_^;)


それに、もっと単純な設定で歩行を観察しても、歩行に認知機能が関わっていることが解るのですよ。

例えば、なにかを跨がないといけないような時。

歩行としては、応用歩行とか言われるような場面かも知れませんが、日常生活ではかなり沢山の場面で跨ぐ動作はあります。

雨の日に家の中で洗濯物を干そうとしている時、床にはこたつの布団や座布団、時にはスマホが置いてあったり。子供がこたつで寝ていたり。

ちょっとまたいで移動しますよね。


あ、本当は人は跨いではいけないのですよ。バランス崩して踏んじゃったりすると大事になりかねませんしね。

もしどうしても跨がないといけないような時は慎重に。声をかけて。

(これ出来ない人が結構いますよね。以前の病院でもわりと見かけました。(^_^;)…私が指導している後輩にはきちんと指導してました。(^^)/)


話を戻します。

他にも色々な場面がありますよね。外に出れば水たまりであるとか、縁石、動物の排泄物とか。いろいろ。

跨ぎますよね。

一日のうちに跨ぐ動作が無い人など多分いないことでしょう。跨ぐことが出来ない人以外ではということではありますけれど。

跨ぐという動作は基本的に良く使用される動作の一つだと言えますよね。


例えばですが・・・


道にいる鳥を見つけたとしますね。

昔であれば捕食のために捕まえようとする場合も有るでしょうし、現代であれば傷ついた鳥をすくおうとするような場面でしょうか。

鳥に近づこうとする時に、道になにか落ちているとしましょう。



鳥を驚かせないように、そっと歩いて行って障害物を跨いでいます。

この時、

障害物は見えているわけです。

そっと挙げている左足も見えています。

視覚情報と左足の体性感覚情報で障害物に左足があたってしまわないように、音を立てないようにそっと。足を上げているわけです。



左足は、またぎ終えて、次は右足。

この時障害物は見えていません。脳の中に残っているのは、障害物の視覚的な記憶と、左足をどの程度挙げたかといった記憶ですね。

この記憶に基づいて左足を適切な高さまで上げるわけです。

この時、瞬間的な記憶が必要となってきますね。

ワーキングメモリーです。


さらに、またぐ瞬間にこんなことが起きると・・・



扉の方で物音が・・・!

ちょっと見にくいですが、頭部が左を向いています。



あ!ちいかわ!!!

かなり注意がそれますよね。(*^_^*)

その間も、障害物の存在、その高さや位置の情報や、左足をどの程度挙げたのかと云った情報は保持され続けることになります。

マルチタスクですね。



ちいかわがいなくなったので、再びそっと左足を障害物に引っかけないように挙げて跨ぎきることが出来ました。


先ほど書いたように、視覚認知、視覚認知による身体制御。身体制御の基盤である身体図式情報。それらが記憶と結びついて可能になる動作なのです。

以前、猫の実験で確かワーキングメモリーが働かない状態にしてものを跨がせると後ろ足が高確率で引っかかってしまうと云うお話を聞いたことがあります。

人でも、結構、後ろ足が引っかかる事って在りますよね。

多分そういった場面は環境が過酷すぎなのか、脳の調子が少し悪い〜寝起きとか二日酔いとか風邪をひいているとか色々な〜場合に起こりやすいわけです。

皆さん引っかかってしまったことあるでしょ?


こういったこともかなり高度な情報処理を必用としていると言えますよね。


この様に、こういった単純な場面を想定しても、歩行という移動機能と認知機能は密接に関連していると言えるわけです。

歩行というのは高次脳機能の一つだと言っても良いぐらいだと私は思っているのです。


現代の研究では、歩行と認知症(以前は痴呆症と云っていましたね)の関連も指摘されているみたいですね。


ところで、2007年に久保田競先生のお話を伺ったと書きました。

この時期には、歩行とか運動機能が認知機能と関連していると云うことは余り一般的ではありませんでした。

勤めていた病院でそういった話をしてもなかなか理解していただけなかった記憶があります。

私の説明も未熟でしたでしょうし、仕方が無かったのかなぁと今では思っています。


ただですね。

本文中に少し引用しましたが、2022年に出版された「運動脳」という本は一般向けに書かれている本です。

神経生理学の論文とは違います。ターゲットはあくまで一般の人なのです。

この本の中には運動と認知が如何に結びついているのかといったことが分かりやすく書いてあります。

私の知っている知識と異なることもありますが、それはどちらが正しいのかはちょっと私には解りません。だけど、大筋では私はこの本は正しいと感じます。

もう、運動と高次脳機能と言われるものが別のものでは無いということが一般的な知識になりつつあると言えそうですよね!



神経生理学を学ぶPTやOTには、物足りないものかも知れません。

しかし、今まで別々のもののように考えられ、取り扱われていた運動機能と認知機能が、ともにあるものであると言うことがやっと一般的に言われるようになったという意味において、読む価値は十分にあると思うのです。

あ、余り神経生理学を知らない人でも、当然読みやすいですよ。

(*^_^*)


リハビリテーションにおいては、高次脳機能のリハビリのために歩行をもちいる、或いは歩行を楽に自動的にして、そういった歩行の後で様々な刺激をすると言った手法が今後は余り否定されなくなると思います。


アマゾンのリンクを張っておきますね。


そうそう。

全然違う・・・いや、ちょっと関連したお話なのですが。

脳科学を初め、医療に関わる科学というのは様々な実験によって進歩してきました。

現在、様々な事が解っていてこれからも解明されることは沢山あるはずです。

その実験を支えているものは、生命です。

ラットや猫、猿。時には人。その他多くの生命が生命科学の分野に光を与えてきました。

現在の人類はその恩恵を受けています。

ある意味狂気の世界なのだと思います。

私には出来ない実験です。解剖して脳をスライスして。時には生存している脳を露出させて興奮している領域を調べたり。

繰り返しになりますが、私にはとうてい出来ません。


だけど、こういった狂気の中で真実を探し求める人たちがおられるから、今の医療が成立しているのです。

人は、その生命が近しいものに対しては、その生命を実験でもちいることに拒否感を出す人もおられます。

猫がかわいそうだとか、ラットがかわいそうだとか。

気持ちはわかります。

しかし、自分の生命がトラブルを起こすと、そういった生命科学の知識から産まれた医療を受けるわけです。

治療が上手くいけば良いですが、治療が上手くいかない時などは医師の性にしたりして。


まだ、生命科学はすべての人を助けるためには不十分な科学なのです。

科学を発展させて、自分もその恩恵にあずかろうと思うのであれば、実験で失われる生命に対しても一定の理解をして欲しいなぁ等と思ったりするのです。


実験において、失われた生命というのは、明日への道を照らす光になるのです。


無分別に生命を奪うことは許されることではないのではありますが。

医学の発展を望み、その恩恵にあずかりたいと願うのであれば。

せめて狂気の世界で真実を求める人達の足かせになるようなことは避けて欲しいなぁと思ったりするのです。


逆に言えば、こうした生命をもちいた実験を否定し、動物の生命が大切であるという主張をされる方達は、実験によって得ることの出来た知見を元にした治療を受けるべきでは無いと思うのですよ。

そこが一貫していないと、ただただ、科学の発展を遅らせているだけの迷惑な人になってしまいます。

一貫してそういった行動が選択出来るのであれば、「動物を使った実験をすべきでは無い」という主張に一定の意味が生じるのだとは思います。


あ、色々な意見もあるかと思います。何だか受け入れられない意見であれば、戯れ言と思って読み流してくださいね。

<m(__)m>



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