日常生活を皆さんはどのように行われていますか?
ADLはいつも変化に富んでいるはずです。
例えば食事。今日は何を食べようと思っていても、おなかのすき具合はその日の天候や活動状況によって変わりますよね。冷たいものが食べたいとか、少しで良いとか、たくさん温かなものが食べたいとか。その気分と作った食べ物によって手の動きや口の動きは変わります。食べてる最中に電話や訪問者があればその対応や、その後また食事の動作へと行動を変容する必要があります。
トイレに行きたいと思うときも、切羽詰まっているときもあればちょっと行っておこうかぐらいの時もあるでしょう。そのとき着ている服も、パンツ一枚の時もあるかもしれないし、パンツに暖かなインナーがあってズボンの時も。ベルトをしているときやしていないとき。スカートの人もいるでしょう。
買い物へ行こうと思っても、買いたい物が冷麺だったり肉だったり。そしたら行くところも違うこともあるでしょう。
生きていくと言うことは、変化に対応して一定の生理的水準を保つことが出来ることです。
場所が違っても、気温が違っても、欲しいものが違っても、したいことが違っても・・・
どういう状況でも適切な範囲の行動を選択してそれを実行できることが命を支えているのです。それを日常生活動作と呼ぶのだと思うのです。
変化に対応して適切な行動をとるためには、自分の状態を知ることが重要です。視覚と前庭覚と聴覚と体性感覚などが一致して身体の情報を知り、自分の垂直軸や正中軸を知覚する。その自分の軸を中心に外環境にある様々な物がどのように配置されているか、どのような事象がどこで起きているのかを認知していく。服はあそこにこんな状態で置いてあるとか、台所でやかんがあそこにあって水が入っているとか。自分自身の状況がおなかがすいているとか少し寒いとか言う内的な環境と外的な環境の関係性の中で、自分にどのような行動を起こすのが適切かを判断して、行動や運動に変換していって、外的な環境に働きかける。その結果外的な環境は変化していきます。服を着ればその服が置いてあったところからその服は無くなるし、やかんを火にかければやかんの位置は変化し、水はお湯に変わるでしょう。その変化した環境をまた認知してさらに行動は変化していきますよね。
これらの行動を脳の処理で考えると、外的環境を視覚や体性感覚、前庭感覚、その他の感覚で取り込み、それらの情報が主に後頭葉や頭頂葉、側頭葉に入って、それらの連合野で統合されます。情報の統合は前頭葉からの入力を受けています。だからなにがしたいのかによって知覚する物も変化します。例えば、木の切り株があったとき、疲れていれば椅子に見えるかもしれないし、寒いときに手元にナイフや斧があれば切って燃やせる物に感じるかもしれない。
そういった形で自分の状態の影響を受けながら知覚、認知の統合が行われ、その統合された情報は前頭葉に送られて行動選択の情報源になっていく。結果行動が選択されるとそれが運動となり、外的環境に働きかけるので、外的環境は変化し、それに伴い内的環境も変化していく。すると新しい認知や知覚が起きていく。そういったループが続く事になります。
それが、日常生活動作を支えている脳の処理。
FIM、バーサルインデックスとかもそうですが、日常生活動作の「評価」と言われる手法があります。あれは本質的には評価ではなくて検査なのですけれど。
それらは、病院の中、病棟の中で服を着替えることが出来るかとか、ご飯が食べれるかとか、トイレは自分でしてるかとか。
点数にしていくわけですね。脳の処理などは関係ない。やり方をこんな風にやったら良いとか教えられてしている人は多いはず。
ちょっと不思議ではないですか?
私たちの日常生活に、誰かこんな風にトイレに行ったら良いとか、こんな風に食べたら良いとか教えてくれる人がいますか?いたら、その人はずっとそばで教えてくれていますか?
多分の多くの人はそうではない。
自分のことは自分で適応行動をしていくしかないし、それで失敗したら自分で修正していくしかない。
それは、脳の広範な情報処理に支えられている行動です。
FIMとか、バーサルインデックスとかは、長い人生の中で瞬間的とも言えるわずかな時間に、病院とかの施設の中で、どのように行動すべきかを教えてもらって出来るようになったことを点数化していることの方が多い。
言い換えると、日常生活は脳の全体的な情報処理(運動出力を含めた)に支えられているはずなのですが、そのごく限られた一部だけ点数化していく事を限られた環境の中、限られた時間に行うことで、その人の生活の能力を知った気になることが出来そうな物がFIMやバーサルインデックスです。
それは家に帰ったときにどんな風に役に立ちますか?
リハビリで追求すべきなのは、広範な脳の活動性を伴った環境知覚/認知と行動の連続性をどのように構築するかにあって、環境を一定にすることで知覚の制限をして一定の行動で生活が可能にするようなことでは無いはずです。
なぜなら、一定のステレオタイプな行動パターンは身体の局所に負担を与え、局所的な疲労や過活動、痛みなどを引き起こしそれらの動作をしにくくしていくからです。
そんな形で日常生活を送ったら徐々に活動範囲は狭くなり、出来ることは少なくなることが予想できますよね。
それができるだけ起きないようにしていくのがリハビリテーションの医療であったはずなのですが。
いつの間にか、ADL評価(検査?)至上主義のようなことになり、病院や施設でのその中でのやり方を教えてしまっていて、適応するためにどうするかということをおざなりにしてしまっている感じが強い。
その背景には保険医療の体制の問題もあるとは思うのですけれど。短期間で自立をすることが保険医療の中で求められていますからね。
FIMなどの検査の点数を基軸に、それがどの程度変化したかで得る報酬が変わるようなシステムを作られたら、それに従ってFIMの点数を効率よく上げる手法が推奨されてしまうのは当たり前のこと。だけどそれは必ずしも脳の処理の改善を伴うものではないと考えられるのです。
あ、勘違いされると困るので書いておきますが、FIM/バーサルインデックスが悪いと言っているのではないですよ。あれはツールですから良いも悪いもないものです。
おかしいのは使い方。
FIM/バーサルインデックス等に代表される日常生活検査は、対象者のそのときの日常生活の程度を示すツールであって、リハビリ医療の質を示すツールではないのです。その変化を尺度に医療の質を判断してそれによって診療報酬を変えるなんてことは詭弁です。
FIM/バーサルインデックスなどの検査は対象者が地域に帰ったときにさらに追跡調査をすることで、それが改善したり低下したりするといった変化を捉え、そこの理由を臨床的に推論をし、介入の手法を考えるときに意味を持つ物です。
FIM利得-FIM効率を考え出したやつや、いまだにそれをいじくり回してリハビリの質がどうのこうのいっているやつは本当に「タチが悪い」と思うし、それにのせられている現場のリハ医やPT/OT/STはお人好しが過ぎます。
「タチが悪い」って、漢字で書くと「質が悪い」と書くらしいですね。
まぁ、こんなことを書けるのは、私自身が保険医療から外れた位置についたからなのかもしれないですが。
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