脳梗塞とか脳出血、頭部外傷のリハビリテーションを行うとき、意識で運動を制御しようとする方がおられるのですね。
これは、意識が運動を制御していると勘違いをされているのだと思うのです。
で、過剰に意識して運動を起こそうとするので、結構難しい感じになりやすいといった事が起きている様に感じる事が少なくないのです。
「意識」というものを科学的に捉えようとする試みは古くからありますが、現在の科学を持ってしても意識というものが脳のどの様な情報処理で生成されているのかと云うことはわかっていません。ですから、ハードプロブレムと言われたりしています。
ここで云う意識は、覚醒の状態を示す意識ではありません。どちらかと云うと自己意識と言われるものに近いものです。
脳の各部位の働きとつながりを見ても、意識がどこから生まれているのかとか、意識がどの様に行動選択や運動選択に関わっているのかはわからないのです。
むしろ、基底核ループといった無意識下の情報選択によって特定の行動や運動を選択し、それ以外の行動や運動を抑制しているのですね。この選択基準は、これもまた無意識下に存在している今までの経験や記憶といったものからより効率的に最大報酬を得られる可能性のあるものを選択していると云うことになります。
効率的な選択のためには、それまでに様々な非効率的でより多くの経験をしたことが背景として存在していることも重要だと思います。たくさんの選択肢の中から最も報酬が期待できる行為や運動を選択する事ができる部位が、おそらく基底核なのだと思うのです。
何度も書きますが、これらのシステムに、意識が関与している部分はありません。
おそらく、ほぼ全ての情報処理は身体図式などの身体情報、辺縁系などの快不快情報、頭頂葉や側頭葉による外環境情報などの情報のやり取りで結果的な運動出力が起きています。
意識が関与するところがあると云うのは実験的に、ごく一部で確認できているのみです。
それも、何かしらの行動を止めるといった様な課題で確認されているのみなのですね。
そういった科学的知見の中、現在、私が最も有力だと考えているのは「受動意識仮説」なのですね。
受動意識仮説というのは、脳の様々な情報処理の結果を、後に意識として感じているという考え方です。
では、なぜその様な事が可能になるのかという事を少し考えてみます。
まず、脳は世界をどの様なタイミングで認識するのかといったことからお話しておきたいと思います。
脳損傷のリハビリテーションに関わっているPTやOTは、当然ご存知のことと思います。釈迦に説法をする様なものだと思いますが、とりあえず知識の共有ということで。
私たちは感覚を介して、自分自身の状況や世界という外的環境を知ることになります。
アリストテレスは、自然を把握する能力として五感と定義しました。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の5つです。
視覚は光刺激、聴覚は空気の振動、触覚は皮膚感覚、嗅覚は化学物質の香り、味覚は味などの情報ですね。現在はもっと様々な感覚が言われています。前庭や内臓による重力感覚、筋肉や腱組織、或いはFasiciaなどによる体性感覚なども加わってきています。他にもありますし、今後は科学の発展とともにもっと様々な感覚様式が発見される可能性もあります。
私たちは感覚を利用して、リアルタイムに世界を知覚、或いは認知していると思っているわけですが、厳密には違うという事になると思うのです。視覚を例にして考えてみましょう。
視覚情報は、コントラスト・線分の方向・明るさ・色・動き・距離/奥行きなどの要素に分解されて視覚野のそれぞれの領域に届けられます。
これらの細分化された情報は、頭頂間溝野や側頭葉などで、物体の位置や距離といった情報とその物体がなんであるのかといった情報になっていきます。
当然、物体の位置などを判断するためには、網膜に映った座標系〜網膜座標系だけではなく、眼球の運動による網膜上の情報の移動などもありますので、眼球座標系や頭部がどの方向に向いているのか、或いは体がどの方向に向いているのかといった頭部中心座標系、身体中心座標系など、他にもいろいろあるのですが、そういった座標系の情報と同時に情報処理をしていかないと、知覚すべき物体の位置とか形などは脳の中に正確に再現できないわけです。
何が言いたいのかというと、要素に分解された情報を脳の中に情報を再統合して世界を知覚/認知するためには、情報処理のための時間が必要だということなのです。
他の感覚様式も同様な事が言えますよね。
ですから、現実世界と脳の中で再構築された世界では、脳の中の世界がちょっと遅れているのですね。
これは言い換えれば、過去の世界の状況を脳の中で作り上げて、知覚/認識しているということになるのですね。
ですので、厳密な意味で、リアルタイムというわけではないという事になります。
だけど、リアルタイムに感じちゃいますよね。
面白いですね。♪( ´▽`)
ちょっと話を変えて、聴覚と視覚の情報の時間的な差について考えてみます。
みなさん、オーケストラのコンサートに行かれたことはありますでしょうか?
いや、高校時代のブラスバンド部の演奏でもいいのですけれど。
演奏会で、奏者がシンバルを打ち鳴らすのを見たとき、私たちはシンバルが打ち合わされたのと同時に音が聞こえます。
ところが、空気振動の伝わる速さと光の伝わる速さは違いますよね。
仮に100メートル離れた席だと、シンバルが打ち合わさった光刺激による視覚情報に空気振動の音情報が300ミリ秒(0.3秒)遅れてくる事になります。0.3秒のずれというものがどのぐらいかという動画を撮っていますので、みてみて下さい。
こうやって、動画で見ると違和感がありますよね。(^^;
それにもかかわらず演奏中に100メートル離れた位置からシンバルの音を聞くと、視覚刺激と同時にシンバルの音を知覚/認知しているという事になります。
それをどの様に可能にしているのかと考えてみると、脳の中で視覚の情報処理を遅らせて音刺激と同期した形で知覚・認知させているという事になるのだろうと思うのです。
つまり、脳の情報処理というのは、一定の範囲内であれば必要に応じて、脳にとって都合の良いように感覚情報を受け取って知覚・認知する時間をコントロールしているという事になります。
元の話題に戻します。
脳自体が情報処理順序の知覚を操作できるという事なのだろうと考える事ができるのです。
ということは、脳の情報処理の結果生じる意識というものを、情報処理の前に生じているかのように知覚していたとしても、脳の情報処理システムとしては矛盾が生じないのです。
なんせ、過去の情報を見ているわけですし、その情報は脳にとって都合の良い順序にする事ができるわけですからね。
おそらくですが、意識が行為や運動を制御していると勘違いすることで環境適応のためのメリットが生じるために、こういった情報処理の形をとっているのではないかと思うのですね。
例えば起きたことを他の人に伝えたり、記憶しておいて、今まで経験のない事に対する適応のためにそれらの記憶を効率よく使うためなどの理由が考えられるのではないかと思います。
そういった情報処理の特性を脳が持っていると考えると、
「意識が行為や運動を制御しているという幻想」を持ってしまうのだろうと推測するのです。
実際は違うので、リハビリテーションによって運動機能を回復させようとする場合、この幻想は患者さんにとっても、セラピストにとっても厄介な幻想だという事になります。
そもそも、意識で行為や運動を制御しようとする事自体が誤りだという可能性があるわけですからね。
私は時折、「”意識”などはないのではないか?」と口にすることがあるのですが、これは正確に言うと、「行為や運動を制御しているような”意識”というものは存在しないのではないか?」ということなのです。
こういった視点に立って、脳損傷の運動機能をみたり、分析したり、そしてアプローチを行おうとすると、また違った世界が見えてくるのではないかと思っているのです。
Comments