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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

意思と随意運動の資料

靴のひもを結ぶ。ふと髪をかまう。口を触る。耳たぶをふと触る。人と話をするときに手を動かすジェスチャー。声や足音に振り向く。ふと人を目で追う。寒くてふと服の前を閉じる。暑くて手で顔をあおぐ。その他いろいろあるとは思いますが、これらはだいたい無意識下に起こる動作です。

人の行為は膨大な無意識下の動作/行動や知覚/認知に支えられています。

意識に上る運動など、無意識下に起こる運動に比べたらごく僅かです。

ですので、ADLといわれるものは無意識下の動きや認知に支えられていると言っても過言ではないはずです。

ところが、BIやFIMでは本来無意識下で行われている様々な動作を頑張って意識的に行っていたとしても点数は改善しますし、その他リハビリテーションで行われる検査は意識に上らせた随意運動や随意的な動作/認知を検査し、評価という名の分析を加えて障害の状態を見ることしかできません。

片手落ちだと思いませんか?

しかし無意識下の運動を定義、定量化するということは現在の科学では不可能です。

無意識を定義するためには「意識」というものを定義する必要があるのですが、現代の科学では意識の定義は困難だからです。

ですから、無意識下の運動を定量化することはできません。同様に意識化した運動も本来は豊富な無意識下の姿勢/認知/運動制御に支えられているので本質的な定量化はできていないのです。

ただ、大切なことなのですが、定量化できないということは理解できないということではありません。

定量化はできなくても理解に近づくことは可能だと思います。

その手法は、「なぜこんな行為を選択しているのだろう」とか、「なぜこんな動きになってしまうのだろう」などの疑問に答えようとする臨床推論と呼ばれる思考方法です。それを支えているのはセラピスト自身の知識/技術と、共にある観察能力と感性です。

今ある科学を否定しようとする気はありません。

ただ、今ある科学という知識が導き出す結論はとっても不十分なものであるという認識が大切なのだと思うのです。

その上でその不十分な科学と実際の臨床から導き出される推論をすりあわせながら、今何が起きているのかを共に考えていくことが、様々な人の障害の本質に近づく唯一の方法なのだと考えています。そして、そのときに得た答えが今何をすべきかという指針になるはずです。

そんなことを考えていて「意識」というものが何者なのかを知るために色々本を読んでみているところです。

この資料は、その中で「意識はいつ生まれるのか」という本を読んだときにまとめたものです。

この本には脳損傷のリハビリテーションを考える上で、とても大切なヒントがあるように思います。


話は変わります。

病院におけるリハビリテーションの効果判定メジャーとしてFIM効率というのがあります。

意識と無意識の関係や、意識的な運動/認知/行為と無意識的な運動/認知/行為の関連について科学的な理解がなされていない以上、運動や行為の結果に点数をつけるという評価方法は問題があると思います。

それを踏まえてFIMは運用されるべきなのです。

しかしリハビリ効率のメジャーとして利用されている以上、病院ではFIM効率を上げるべく短期間でのADLの獲得が至上命題となりやすい側面は否定できません。

短時間でのADLの獲得が長期間にわたる生活の中で正しいことなのかどうかは科学的にわかっていないにもかかわらずです。

本来、日常生活のあらゆる動作は無意識下でマルチタスクの一部となることが理想です。

リハビリにおいては、そういった指向性でアプローチが行われているのです。

FIMおよびFIM効率はそういったことは反映しない仕組みになっています。

完全に個人的な見解ですが、FIM効率は最悪のメジャーです。

FIMの解釈に必要な基礎研究はまだ十分とはいえません。にもかかわらずFIM効率は科学的に正しいフリをして存在するように仕組まれています。

FIM効率が高い病院はリハビリの質が高いという結論を導き出すのは詭弁でしかありません。

きっとこのメジャーを考えた人は、人の動きなんて関心が無い人で、なおかつこのメジャーが医療現場でどのようなことを引き起こすのかとか、その不利益を予測する想像力が欠如しているか、すべてわかった上でこのメジャーを作ったかのいずれかです。

どちらにしても罪深いと素直に思います。




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