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大脳基底核と論理性——言葉の外にある思考のしくみ

私は以前から、論理性とは本当に言語によって担われているのだろうか、と考えることがあります。論理学の世界では、論理性といえば言語による表現が前提とされます。たしかに、論理的に物事を述べようとすれば、言葉の助けが必要です。しかし、実際の現場——特に医療やリハビリテーションの現場で人と接していると、それだけでは割り切れないことが多々あるのです。


たとえば失語症の方、特に内言語が障害される感覚性失語のタイプの方に接していると、言語が不自由であるにも関わらず、思考そのものには確かな論理性が感じられる瞬間があります。

逆に、失語などが無い人であっても言葉は流暢であるにもかかわらず、言っていることが論理的に破綻しているような例も見かけます。最近の国会中継などを見て、そう思う方もいらっしゃるかもしれませんね。(^_^;)


話は少し変わりますが、春になって事業所の周囲をツバメが飛び交うようになりました。巣作りの季節です。ツバメにとって理想的な巣の場所とは、雨をしのげて、天敵から雛を守ることができ、なおかつ餌場に近い場所。そんな条件を視覚的に判断しながら、最適な場所を選び取っていく——ここにすでに、高度な論理的判断があると思うのです。

「ここは低すぎて捕食者に見つかりやすい」、「あちらは高いが雨が吹き込む」、あるいは「この場所は高く、雨も防げる。安全だ」といった風に、様々な条件を検討して、安全と思われる場所に巣を構える。それはまさに「命題に対する真偽の判断」、すなわち論理そのものです。


命題論理学で扱う五つの基本的な論理演算——否定、連言、選言、条件法、双条件法——これらは、行動の選択を行う際にも、自然と動物の中で働いているのではないかと思います。

論理性は、つまり「いま、どの行動が最も適しているか」という選択を支える力であり、それが備わっていない個体は、いずれ淘汰されてしまう。ゆえに、生き残っているということ自体が、何らかの基本的な論理性を有している証である、と私は考えるのです。



その論理性は、言語という形式ではなく、身体と環境に根ざした「行動選択」として現れます。そしてこの選択を支える脳の機能を考えると、行動の発動と抑制のコントロールを担う「大脳基底核」に着目するのは、ごく自然なことのように思えるのです。

たとえば現在、私の事業所には小さな赤ちゃんのご利用者さんがいます。彼らもまた、言葉はなくとも確かに論理的な行動をしているように見えます。母親の姿を見て近寄り、抱っこを求める。楽しそうなおもちゃを見つけると、手を伸ばす。それが難しい場合は、泣いて不満を訴え、周囲に働きかけて助けを得ようとする。これらはすべて、状況と目的に応じた「行動選択」——無意識下の論理性の発露だと捉えられないでしょうか。

脳卒中の方の場合も同様です。「手を動かして」という指示に従って動かすことはできても、朝起きて無意識に寝返ろうとするとき、麻痺側の手は動かせないと判断して非麻痺側の手で補助する。ここにも、言語化されない、しかし明確な論理があります。

言語化されれば、おそらくこうなるでしょう。

ツバメ:「ここに巣を作りたくなった」

赤ちゃん:「はらへった」

脳卒中の方:「寝返るときはこうしろと教わった」


もちろん、これらがすべて正しいと断言するつもりはありません。ただ、言語の背後にある、もっと根源的な「論理する力」が確かに存在しており、それが行動の選択に影響しているという側面は、無視できないと考えています。

こういった論理性は、従来の評価スケールではなかなか捉えきれないかもしれません。けれども、リハビリテーションの本質は、まさにその「無意識下の論理性」にどう働きかけるか、というところにあるのではないでしょうか。

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