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リハビリテーション医療を学ぶ前に



私、いつの間にか還暦です。

驚きますよね。

リハビリテーションの仕事を始めて、既に40年近くたっているんです。

仕事はじめた時は、自分がベテランと言われる年齢領域になることなんて考えられませんでした。

いまでも、ベテランと言われると、ちょっと違和感があります。まだまだやっていることとか、考えていることは不十分な若造なので、ベテランと言われるとちょっと馬鹿にされているのではないかという気さえしてきます。(^_^;)


ただ、不十分ではありますが、私がかつてやっていたことよりは、マシなことが出来るようになっていますし、知識も増えてきました。

知識に関しては、特にここ25年ぐらいでしょうか。

脳科学者と言われる方達と、直接やり取りをさせていただく機会が増えてきました。


これって、ある意味凄いことなのでは無いかなぁと思ったりするのです。

何かのインストラクターでもなく、どこかの病院に勤めているわけでもない人間で、地域にいるただの作業療法士に過ぎない私でも、科学者と言われる人達とお話しをさせていただく機会があるというわけです。そういった意味から云えば、結局その気さえあれば科学者とお話しをすることは誰でも出来ることなのかも知れないですね。そう考えると凄いでしょ。


勘違いが起きないように、書いておきますが、私自身が凄いと云っているわけでは無いですよ。誰もにそういう機会が存在しているという事が凄いと思っているのです。

若い時には本当に考える事が出来なかったことです。


さて、それが良いのか悪いのかは別として、科学者と言われる職域の人とお話しをさせていただいていたわけです。当初はとても違和感のある話し方に面食らったのですね。

どの様な質問をしても、余り、明確に「こうだ・こうです」と言い切ることをあまりされないですね。どちらかというと、「こういう条件下では、こうだと云えるのでは無いかと思います」とか云った表現が多いのですね。


はじめの頃は、これは不満でした。「こうだ」と云っていただいた方が、自信を持って臨床に向かえる気がしたのですね。


ところで、EBMが日本に導入されたのは、1990年代後半からだと言われています。たぶん導入された時期ぐらいから脳科学者と言われる人達と接触しはじめたという事になります。


で、EBM大好きセラピストとも様々なディスカッションをしてきたのです。

ボバースコンセプトに対して敵意をむき出しに議論をふっかけてくる方もおられました。

私に議論をふっかけても、何にもならないんですけれどね。本当にボバースコンセプトに対する不満や疑問を云いたい、聞きたいのであれば、ボバースコンセプトのインストラクターに議論を持ちかけるべきだと思うのですけれど。

まぁ、そんなこんなで、何時しか話がかみ合わないという事に気がつき始めました。


EBMが導入された時期のセラピストは尖ってましたからね。(^_^;)

今ではNBMの存在もある程度知られてきましたし、理学療法部門では、EBPTという概念を言い始めておられるようです。

詳しくは知りませんが、EBMが絶対的なものであるという認識から、数多くある治療のなかから、何かを選ぶためのひとつの指針であるという形に姿を変えつつあるのかも知れないと思ったりしています。


とはいえ、まだ尖ったEBM信者がおられるようで、SNSを散策すると、そういった情報にも触れたりすることがあります。


ここ数年、特に思うのですが、科学というもがどういったものなのかという事を一般教養としてリハビリテーションの学校教育で教えた方が良いのではないかと考えているのです。


現在の科学は要素還元主義による研究で成立しているわけですが、そうすると研究には再現性が重要となります。何を再現させるのかと云えば、なにかしらの結果〜その多くは数値化できるものとして再現されることがとっても重要な学問なのだと思うのですね。

では、数値化できないものは必要ないのかというと、科学の研究という視点から云えば必要ないというか、とり省かなければならない要素という事になります。こういった要素をとり省くことを、「オッカムの剃刀」という表現で表したりするのですが、この剃刀で、必要ないと考えられる要素や数値化できないものは切り取って、物事を単純化し、実験するわけです。

ですが、本質的な部分を考えると、この切り取ったものも含めたものが現実なのであって、切り取られたものが不要なものであるという証明はほぼ出来ないわけです。


ですから、最初に書いたとおり、科学者の立場からは「こういう条件下では、こうだと云えるのでは無いかと思います」といった表現が多くなるのだと思います。

これが、いつの間にかEBMになると、何かが正しくて何かが間違っているとか、何かが効果があって何かが効果がないというお話になるわけです。

研究や、その研究を参照した研究、それらをまとめる研究などの伝言ゲームのようなやり方の中で、最初の研究の意味とかは何時しか変化しちゃうんでしょうね。


これは、仕方が無いことだろうと思うのです。

だから、私たち一般の人達は、科学という学問においてもこういったことが起きている、或いは起こりうるという事を知っておく必要があるのだろうと思うのですね。


こういったことを研究の中から見抜く作業というのも必要なのだと思います。

これも結構難しいことです。

科学的な論文が何を根拠に何をどの様に伝えているのか、そういった論理的な組み立てが過不足なく正しいのかという事を知る必要もあるのですね。

ここには、たぶん、論理学という分野の学問を知る必要があると思います。

倫理学とは違いますね。漢字が似ていますが。

倫理学も必用なのですけれど。

それとは違った意味で、論理学は必用だと思うのです。「ではない」「かつ」「または」「ならば」と云ったやつですね。

論理学とは、言葉と言葉の繋がりの正確性に関する学問だと思うのですね。

論文を読んだり、書いたり、或いはディスカッションを行う上でとても大切な学問だと思うのですね。

あ、これは私は思っているだけで、きちんと学んだり本を読んだりしていません。(^_^;)

これから何か本でも読もうかなと思っているところです。

ただ、科学というものに触れる中で、つくづく必用だと、そう思うのです。


と云うわけで、一般にもそうだと思うのですが、特にリハビリテーション医療に携わる人は、医学を学んだり,論文を読んだり、どのようなセラピーを行うかという決断をする前に、それらがどの様にして成り立っているのか、自分自身の考えていることや判断したことが本当に正しい方向なのかという事を判断するために、科学というものがどういうものかという事を知ろうとすることと、論理学を学ぶことが大切なのではないかと云うお話しでした。

<m(__)m>



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