まぁ、ボバースコンセプトに限らずなにかの治療コンセプトを学んでいると、「○○コンセプト(○○法)って宗教(的)だよね。」という批判めいたご意見をお聞きすることがあります。つい先日も、そのお話でのSNSでの情報発信を見させていただきました。
こういった表現をされる方は、「科学的とはどういうことか?」「宗教とは何か?」と言った事に対して、明確な理解をされた上で、○○コンセプトとか、○○法などが科学的では無くて宗教的であるという判断にたどり着かれているものと思います。
私は不勉強ですので、科学というものを明確に説明は出来ませんし、宗教も同様です。
ということで、少しだけ調べてみましょう。
まず、科学とは何か?
Wikipediaで「科学」を調べてみます。
”「科学」(science)という語はラテン語の scientia (知識)に由来し[8]、「知識」全般を指すこの言葉は早くはフランス語に取り入れられ、17世紀初期には英語としても定着した[9]。古代では科学と哲学に区別はなく、これが分化したのは近世(特にF.ベーコン以降)だった[10]。”
ふむ。
解ったような解らないような。その先にこんな記載も。
”20世紀の歴史学者ハーバート・バターフィールドは、17世紀のヨーロッパにおいて、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち実験(冒険)という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとする。バターフィールドはこれを「科学革命」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた[17]。”
実験科学ですね。
どうやら科学と言われるものには、実験化学・観察科学・理論科学という分類もある様です。
その中の実験科学の記載のようですね。
しかし、記事ではこの文章の後に、その実験の手法として、「自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて」と書いてあります。しかしですね。自然法則の中の要因は大なり小なり非線形の相互関係下にあると考えた方が良さそうです。ですから、とり除いちゃったらもとにあった自然とは言いがたいものになりますよね
とかと考えていたら、さらに下にこんな記載がありました!
「また、科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。分類可能性と予測可能性は厳格なカオスを除いては一体不可分であり、もとより科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ。このため「科学的」でさえあれば未来の予測は正しいとの確信を招きがちである。このような確信は、論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在によりしばしば裏切られる。」
どうやら、科学というものは正しいものではないようですね。
正しいものとか、真実を探し求めようとすること自体を「科学」と呼べるのかも知れません。
とすると、科学であればすべて正しいとか真実であるとか考える事があったとすれば、それはすなわち「科学的では無い」と言う事になりますね。
この感覚は私のもつ、「科学」という言葉もつ感覚に近いかも。
(*^_^*)
さて、宗教とはいったい何かという事を見てみましょう。
芸がありませんが、Wikipediaです。(^^;
「宗教(英: religion)は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり[1]、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである[2][3]。
自然の力を越えた存在・・・
自然に起きた事象であれば、それは「自然」なのではありますけれど。
紀伊先生に私の患者を診ていただいて、私より患者さんの反応が良かったのなら・・・、というかいつも良い反応なのですけれど。それは紀伊先生が自然の力を越えたことをされたのではないのです。紀伊先生の経験から、観察や分析、脳生理学的な知識と照らし合わせて仮説と検証を繰り返された結果であって、自然の法則の中にきちんと収まっているわけです。
その先に、宗教の要素という項目で以下の記載があります。
「ある教えを基として信者が増大すると、やがて教団が形成される。各教団は信仰の場として寺院や教会、神社やモスクといった宗教施設を所持し、宗教に専念する聖職者を抱え、教団内部ではしばしば厳格な階梯制が導入される[29]。
また、教団と信徒は宗教の維持と拡大のため、布教を行う。布教は信徒の家庭内において親から子へ教化がなされるほか、外部の人間に積極的に布教を行い信徒数を増加させていく宗教も存在する[30]。」
あ、これかぁ!おそらく、○○が宗教的と言われる場合には、「科学的では無い」という意味と、宗教の要素として記載されている、「信者が増大すると、教団が形成される。」という形の上での類似点が指摘されているのかも。
だけど、それならばEBMも宗教的ですよね。
う〜ん。
「科学的では無い。」と言ったご指摘に対しては、おそらくそれぞれのコンセプトは色々科学的根拠を持とうとしているはずですよね。
例えばボバースコンセプトでは、姿勢や運動を観察(観察科学)して、脳生理学的な基盤は常に考えています(理論科学)。そして、仮説を立て、検証をします(実験科学)。さらにそれらを繰り返していくのです。
科学としての作法は正しいような気がしますよね。
むしろ、なにかしらのデータを元にして、それを信じてそれを実施するといったアプローチをするよりは、こういったプロセスを踏む方が科学的だと言えますよね。
とすると、「宗教的」という言葉の指すところは、その形態〜教団のような団体であるというところになりますが、先に述べたように、それは他のセラピストと何ら変わりは無いわけです。
さてさて。
ときおり宗教的とご指摘をいただくことはあるのではありますが。
たぶん、私の持つ科学や宗教に対する考え方は、そういう表現をされる人と異なるのだと思います。
ですので、その人の持っている科学や宗教に対する考え方を確り教えていただきたいなぁとおもいます。
心から、そう思います。
少なくとも私が調べたり考えたりするかぎりに於いて、私には「宗教的」といわれる論理的な背景を理解できませんでした。
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