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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

デッドボールに見る意識と無意識

更新日:2023年3月16日




WBCで盛り上がっていますね❗

私事ではありますが、私、野球を面白いと思ったことが無かったのですね。長いこと生きてきていて、今回は野球を面白いと思ってみることが出来ました。

さて、デッドボールの話題が結構出ています。

日韓戦でヌートバーがデッドボールを受けた際に韓国の投手をにらんでいました。

大谷選手もデッドボールでは無かったですが、危険球で投手をにらんでいましたね。

私としては、野球とは言え戦いですので、睨むぐらいのことはあるだろうとは思うのです。ただ、投手も意図的で無くボールが危険球・デッドボールとなってしまった場合、謝罪の動作が有れば、まぁ、収まりやすかっただろうと思いはしますけれど。このあたりは文化の違いとかもありそうです。


さて、デッドボール。

自分に向けて150キロ以上の球が飛んで来たとき、脳はどのように反応しているのでしょう?

150キロの球が自分に向けて飛んできているのを視覚で知覚するのです。

ピッチャーが投げるマウンドからホームベースまでの距離は18.44メートルだそうです。

投手がマウンドから150キロのスピードで投げると、バッターボックスまでは何秒で届くのでしょう?

150Km/hを秒速に修正します。

150000m÷3600sec=41.6m/sec

1秒間に41.6メートル移動する早さなのですね。だと、ホームベースまでの距離が18.44mですので。

18.44m÷41.6m=0.443sec

0.44秒でホームベース、つまりバッターの立つ位置まで届くことになります。


ここから先は推測になりますが、ボールが投手の手を離れた瞬間に自分にボールが向かってくると判断は出来ないはずです。仮に、投手の手を離れてから1/3程度の距離を球が移動した時点でボールの飛んでくる方向を知覚できるとすると、0.29秒前にボールが飛んでくる位置が知覚できるということになります。繰り返しますが、仮の話ですよ。


さて、取りあえず視覚刺激に対する(単純)反応時間はどの程度なのでしょうか。昔、林克紀先生が研究されていたデータでは、0.27秒ぐらいが正常じゃないかと書いてあったような記憶があります。

脳科学時点を見てみます。

ここでは、視覚刺激に対する単純反応時間は0.15秒〜0.3秒としてあるようです。


単純反応時間で、最も速いスピードで反応したとしても、0.29-0.15=0.14秒で危険球に反応して避けなければならないということになります。

(遅い方の0.3秒をとると、自分に向けて飛んできた球は必ず身体に当たるという理屈になってしまいます。)


さらにですね。

バッターにおいては、球が飛んできたときに球が、ストライクゾーンに入るか否か・打ちに行くべきか否か・避けるべきか否かといった選択を迫られているので、選択課題であると言えるでしょう。

ですので、単純反応時間より時間はかかります。


意志〜脳の認知ー判断ー意志決定ー運動の流れで情報処理をしているとすると、自分に向けて飛んできた球はほぼ間違いなく身体に当たってデッドボールになってしまうと言う理屈になりそうですね。


何で避けたりすることが出来るのでしょうね?まぁ、体軸に向けてきた球はほぼ避けることが出来ないのでは無いかと思いますけれど、頭に向かってくる球は避けれたりする場合も有りますよね。何でそんなことが出来ているのでしょうね?


特に頭部を中心にではありますが、急速に自分に近寄る視覚刺激に対しては認知などの情報処理に先立ち運動を起こすメカニズムが存在していることが推測できます。

意識外の動きですね。

だけど、自動的に避けた後から、「ボールが頭に向かってきたから避けた。」などと意識するわけです。これは避けた後から認識された理屈だということになりますよね。意識してから避ける動作をおこしていては確実にぶつかっているわけですから。


そうすると、意識によって制御されている運動と意識されていない運動が有るということになります。

姿勢反射とかバランス反応と言われるもの以外にも、少なくとも視覚的な刺激に対する無意識下の運動選択があるということになるのです。

となるとですね。そういった無意識下の運動選択はどういったことまで起きているのかという疑問が出てきますね。


こういった研究が意識と無意識の研究なのです。

リベット教授は、被験者の脳に電極を指して、「指を曲げよう」と意識した瞬間と、「指よ曲がれ」という筋肉への指令が脳の運動野で出た瞬間を計測しました。結果は興味深いものでした。自分が「指を曲げよう」と意識するよりも、平均で0.35秒前に、筋肉への指令、つまり脳の活動が始まっていたというのです。


自由意志といわれるものが存在しているのか否かというのも現在研究の課題の一つになっているようです。


脳損傷のリハビリテーションに関わっておられるセラピストであれば、網様体脊髄路の働きによって起こる共収縮による体幹コアスタビリティの制御や運動に伴う近位部の安定性の構築などは無意識下の活動であることもご存じだと思います。結構、意識による運動って少なそうですよね。


自由意志が存在しているとして、随意運動と言われるものは無意識下の運動の上に成り立っているごく僅かな領域の現象なのではないかと考える事が出来るのです。


じゃ、私はこの文章を自由意志で書いているじゃ無いかと言う声が聞こえてきますね。

自由意志に見えるかも知れません。

しかしですね。それは記憶なのでは無いかと思うのです。

事業を成立させなければ、これから生きていくことが出来なくなります。それは経験による予測ですけれど。

それは何となく不安という形をとり、なにかしらの行動選択をおこすよう情報処理が起こります。

利用者が来られないという時間に、なにかしらの情報発信をするという行動選択も、今まで生きてきて何も語らずに理解してくれる場面も経験してきて記憶にありますが、同時に大多数の中である程度、自ら情報を発信しなければ理解されないという経験もしてきて記憶に残っているわけです。それらは意識されるものも在るかも知れませんが、無意識下で顕在化されない記憶も多いのです。

すると、なぜだか解らないけれど、なにかしらの情報発信をしなければ何となく落ち着かないとかそういった事態に陥ります。(^^;

そこで、なにかしらの話題を探索するのですが、その中で浮かび上がってくるのはやはり、数多くの情報の中から気になった情報、それは記憶のノードがなにかしら関心を持っている記憶と結びついて強くなり、無意識下の記憶から意図せず浮かび上がって意識化された記憶にしか過ぎません。

しかし、それらは様々なノードと結びついているので話題として展開しやすいものなのでしょうね。

そういった経過で、せっせとパソコンのキーボードを、これも半無意識に叩いているわけです。

意識と無意識、随意性と自動性。

面白いですよね。


多くの中枢神経疾患の方の動きはこの意識と無意識、随意性と自動性のバランスが逆転しているように感じます。

意識・随意性が優位になりすぎているんですね。というか、そういった感じがするのですね。


これらの原因は、動こうとした際に思ったように動かないため、エラー情報から意識が優位になって運動を学習すると言った、再学習の経過にあるのかも知れません。

もしかすると、リハビリテーションの経過で意図的な制御を要求されすぎると言った事もあったり、それが原因の一つとなっているのかも知れないですよね。


意識的にしか動けなければ、それはやっぱり危険なわけです。飛んでくるボールを避けることが出来ない、ま、蜂とか飛んできたら避けられないとか。


FIMやBIのように何が出来るとか出来ないとか言う判断基準も大切かも知れませんが、どれだけ自動的に活動できているのかと言った評価基準も大切なような気がしてきませんか?

(*^_^*)



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