いんすぴゼミ_11月8日



毎回楽しみにしている「いんすぴゼミ」。

何度か紹介しましたが、脳の研究をされておられる毛内拡先生が脳に関わる本を解説しながら読むという企画です。

で、このブログの記事は毛内先生が読んでいかれる本を一緒に読みながら、その解説を聞きつつ感じたことを書いていくと言う企画です。♪( ´▽`)

今回は「芸術の本能」の続きです。

エレン・ディサーナーヤカによる芸術は生物学的な行為だという主張が展開されていました。生物学的な行為であるとすれば、なんらかの形で生存に関わる動機づけが行われているはずなんですが、それが一体何かということなんですね。

今回の印象だと、基底核がらみの印象があります。ここに私の思考が至った経過を説明しますね。


エレンが主張した芸術の裏にある行動傾向とは、「特別性を持たせること」だとしているとのことです。

特別性とは何か?

一つは集団の団結力を高めることで生存上の利点があったとしています。これはなんとなく分かりますね。

集団のダンスを美しく思ったり、軍の行進の美しさなどは一糸乱れぬ協調性に感銘を受けるのだろうと思うのですが、集団としての団結力を窺わせるものであって、内在する強さの指標のような気がします。軍隊の行進がバラバラだったら弱そうですよね。統率力がなさそうですから。

まぁ、そういったことなのかなぁと思ったりするのです。一糸みだれぬ集団の動きというのは美しく力強く感じてしまうのです。それは同族からすれば安心感につながるものでしょうし、他から見れば脅威に見えるかもしれませんね。

もうひとつ「性淘汰の結果」という考え方もあるようです。孔雀の美しい羽と同じですね。

現代においては社会適応の指標としての意味、つまりお金がたくさんあるから誰もが働いている時に私はこんなにお金を稼ぐ以外の時間を費やすことができているという表現ですね。だから、私と一緒になれば生活に苦労をすることは無いという表現であるのかもしれないです。

で、芸術とは直接的に生活とは関わりがないという意味では「空想に遊ぶ能力」の一つなのかもしれません。

ノンフィクションよりフィクションを好むという傾向は人に特有なものなのかもしれません。

なぜ、歴史書より歴史のドラマを好むのか?雨の日に車の整備書より小説を読むのはなぜか?(車の整備書を読む方が有益なはずだと描いてありました。)

ともかく、人には虚構と現実を区別するメカニズムがあるようだという主張を紹介しています。

同じ情報でもこの場合は正解で、この場合は不正解。Aという人がBという人にこういったらそれは正解だけど、同じことをAという人がCという人に言う場合は不正解。そういった情報の弁別です。これが苦手なのが自閉症スペクトラムの人たちですね。

「空想に遊ぶ」、これは社会適応上の行為ではないかと言うことです。確かに、以前から子供時代に行う遊びは社会情勢を反映していることが指摘されていたはずです。侍の時代はチャンバラ。かくれんぼや鬼ごっこなどは敵から身を隠したり逃げるといった行為の模倣であり、将来そういったことが必要な状況になった場合のためのシュミレーションと言えるのかもしれないです。

それらのシュミレーションのためには「虚構と現実を区別する」能力は必須と言えそうですよね。

さて、ここでなぜ私が基底核の関連を考えたのかと言うことではありますけれど・・・

本書にこういった表現で書いてあります。

「条件付きで正しい情報を使う私たちの能力は独特のものだ」

ある条件下では正しいから使うべき情報となる。また違った条件下ではその情報が誤っているから使わない。

なんだか人の動きに似ている気がしたのです。

ベルンシュタイン問題とか冗長自由度の問題とか言われる問題がありますよね。

例えば机の上にあるリンゴを取ると言う動作の場合、右手で取るとか左手で取るとか。右手で取るにしても上からアプローチするのか右横からアプローチするかとかさまざまな運動軌跡が存在していますが、その中から人はたった一つの運動軌跡を選択してリーチする訳です。

ある場合はこういったリーチ方向。この場合はこのリーチ方向など、場面によってその方向は変わったりします。

「条件によって運動の方向性を選択している」と言うことになります。

なんだか似ていませんか?

言い方を変えれば、「ある条件下ではこの方向のリーチが正解で、また異なる条件下では先ほどのリーチ方向は不正解である」と脳は情報処理をしていると言うことです。

これはどのように行われるかと言うと、おそらく基底核が関与しているものと考えています。

ハイパー直接路は必要な情報以外を抑制するとされていて、直接路では必要な情報の促通が行われると言うメカニズムを持っているようですので、これを利用して多彩な情報から必要な情報を選択して時情報処理(運動においては運動実行)させていくこのメカニズム。似てますよね。

基底核の機能は必要な情報を適切なタイミングで処理していく様なもののようですから、後はどこから入力を受けてどこに出力を送っているのかという違いで働きを変えているのだろうと推測できます。

であれば、頭頂連合野と基底核のループで環境情報を認識し、その情報が上縦束で前頭連合屋に送られているので、その情報を持っている前頭連合野との基底核ループや辺縁系と基底核のループなどは、遊びの中で虚構と現実を区別する事のできるメカニズムを持っていると考えられるような気がします。

だとすると、基底核損傷などがでそのメカニズムが壊れると、大なり小なり虚構と現実を区別する能力は減弱するはずです。特に右脳は空間処理に特化した形になっていますので、脳内での環境情報の生成と知覚し得た環境情報による情報の選択をおこなっていると考えられますので、右脳損傷ではそういった傾向が強くみられるのかもしれません。それは臨床的には納得される人が多いのではないかと思うのです。

遊びを通して環境情報の中から必要な情報を取捨選択し適切な情報を出力してもらう、つまりうまく遊んでもらったり遊びが上手になってもらうことも、脳の機能を開発するには重要なことなのかもしれないですね。

こういった感覚は、子供さんのセラピーをしているとよく感じることではあります。


毛内研究室はこちら。

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