クリストフ・コッホは「意識の探求」という本の中で、ある事例を通して意識が運動出力とは無関係に成立すると述べています。
以下引用です。
「六人の麻薬中毒患者の若者がカリフォルニアで、ある日突然パーキンソン病の重度の末期症状にかかってしまった。患者の後日談では、意識ははっきりあったものの、動くことも、話すこともできなかったらしい。強く念じれば目を開けることはできたのだが、たったそれだけのことに三〇秒ほど必死になって目を開けようとしなければならなかったという。医師が彼らの腕を前に引っ張って、そして離すと、腕はゆっくりゆっくりと彼らの方に落ちて戻ってきたが、それだけでも三、四分かかった。原因は、その数日前に六人が摂取した、自家製の合成ヘロインの混合物であった。不幸にもそのクスリには、大脳基底核のドーパミンを合成するニューロンを選択的かつ永久に殺してしまう、MPTPというとんでもない薬が混ざっていた。この身動きのとれなくなった麻薬中毒者については、医学の歴史的事件として本に記述されている。また、この事例は、意識が運動出力とは無関係に成立することを直接示している。」
引用は以上です。
さてこの本が出版されたのは2006年のことです。基底核の研究はそれでも進んできている時期ではあったと思うのですが、まだこの本を執筆されている時期は運動プログラム生成に関わる基底核ループのことをご存じなかったのかもしれません。
基底核でドーパミンが減少すると基底核直接路と間接路の調節が困難になります。結果、基底核出力先のターゲットシステムは出力が低下してしまいます。
皮質の働きがあったとしても基底核の機能が障害された結果動きが出ない状態が起こるわけです。
(図は高草木薫先生の資料)
ですので、この事例から言えることは前頭葉の運動プログラム生成において、基底核ループの役割は意思とは無関係であるとは言えるのですが、皮質は働いていると思われるため運動出力とは無関係と結論づけるのはやや強引な気がします。
より正確な表現をするのであれば「意思は運動出力”の調整”とは無関係に成立する。」ということになるのではないかと考えます。
意識のことを考えるに当たって、この差は大きいと思います。
運動出力とは無関係としてしまうと、それに関わる回路網が無関係とする結論も出てくるかもしれませんが、少なくともこの症例から言えるのは基底核を中心としたループは無関係である可能性が高いということであって、例えばSLFで頭頂連合野と接続されている運動前野や補足運動野が関与していないということは証明できません。
前補足運動野/補足運動野の電気刺激によって反対側の手の運動がおきますが、同時に特定の行為/動作がしたいという欲求が出現するとされています。ですので運動の出力に対する意識と補足運動野は何らかの関連性があると言えます。ですので、意識は運動出力と無関係とは言えません。(逆にだからといって補足運動野が「意識と相関する神経活動(NCC)」の座であるであるということも言えません。言えるのは補足運動野が意識の変容に関わっているということだけです。補足運動野が損傷しても意識その物が失われることはないはずです。)
ただ、この本はそういった些細なことを上回る面白さがあります。特に、視覚に関わるニューロンの働きや皮質の構造から機能的な違いがあることなど知らなかった情報がたくさんあって刺激的です。
もうそろそろ上巻を読み終えるので、それから下巻。ボリュームはすごいです。
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